ダーウィンの不始末

ちかごろ、研究会や勉強会で発言するときに、抑制がうまくかからない。わりと辛辣になってしまう。せっかくみんな勉強のために忙しい中集まってきて精一杯がんばっているのだから、もっとナアナアな雰囲気で、誰かが多少おかしなことを言ったとしても「いいよいいよ、がんばってるもの」みたいに、広い心で、相互扶助の精神で、1に交流2に交流、34がなくて5に直流くらいのイメージで。

と書くといかにも皮肉っぽくなってしまうのだけれど、実際、時間外によかれと思って勉強のために集まってる人々のことは大事にすべきだと思う。学術的な正しさを追求するためなら人をどれだけ傷つけてもいいなんて理屈は今の時代にそぐわないし昔だって本当はだめだった。

そういうことを、よくわかっているのだけれど、どうも、最近は抑制がうまくかからない。

若手が怖がっているように思う。私はそういうタイプの人間だったのだなと悲しい思いもある。

私に厳しく突っ込まれた人がこれを読んだら、「人をさんざんこきおろしておいて何を……」と鼻白むかもしれない。

私としては人を攻撃しているのではなく論理を攻撃しているつもりなのだけれど、「罪を憎んで人を憎まず」みたいな標語にも言えることだが人の言葉や論理というのは口から出た瞬間に肉体と切り離されるわけではまったくなく、結局はその人の人格というか内面と切り離せないものなので、「学問の話題では真剣勝負、終わったらノーサイドで称え合う」なんてのはしょせんはきれいごとでしかない。

人の考えを受けてそこを高めていくような知性を身につけるまで、少し、話す回数を減らして「予防」をするべきかもしれない。

しかし、研究会や勉強会、と書いたけれど、そういうときだけではなく、普段から、だれかとしゃべるときにトゲが出てきている可能性もある。ここにきてコミュニケーションの仕方が雑になってきているかもしれない。私が若いころにあちこちで見た、「歳を取っているというだけで居丈高」に見える人たちと、今の私とはどれくらい違うのだろうか。わりと一緒なのではないか。




ウェブ日記をはじめた。「がんユニ」という。


URLが無粋で、ばれてしまうのだが、医学書院に作ってもらったサイトだ。ただし更新はすべて私がひとりで行う。書くのはもちろん、公開作業も、告知もだ。告知はだんだん減っていく可能性もある。

診療の毎日についてのことを主に書く。何月何日にどうこうしたと書くと個人情報ホゴホーにかすりはじめるので、記事の執筆した時期と公開日とをランダムに組み替えている。Wordpressのプラグインを用いて小さな工夫をしている。こんな内情をいちいち書かなくてもいいのだが、書かないと掴みかかってくる人もいて、まあ掴みかからせておけばいいのだが。

いずれ診療のことだけではなく出張についても書く。人に会って話を聞く仕事の。編集者が音声データから文字起こしをしたものを私が原稿にまとめる過程を、すでに一年くらい続けており、あと一年くらい続く。見通しがだいぶ立ってきた。

まとめた記事の中にまじりこむ私のエゴをとりのぞく作業に手間をかけている。ホタルイカの下ごしらえでくちばしや軟骨や目をとりのぞく作業に似ている。私がかかわる企画である以上、私から染み出す「味」を無にはできないが、まじりこんだそれが「魚骨」であってはならないし、「スパイス」くらいだとまだまだ多いし、「出汁」でも濃いというかうっとうしいというか、「椀の模様」でありたいとも思わないし、「箸置き」くらいでありたい。

そうやってとりのぞかれたエゴの部分がボウルの中に山積みになっている。ホタルイカの否可食部なら捨てるしかないけれど、エゴは別の料理に使える薬味として使えなくもない気がした。刻んでそろえて冷やしておくくらいならいいかなと思ったのが、ウェブ日記をはじめた理由である。



直接人と向き合わないコミュニケーションは達者になった気がする。選択圧によって残った変異、私の場合、そういうものだったのだなあと思う。