バッハが笑ったよ! バッハハハ! これくらいのギャグだと投稿する気がしない。雑だからだ。思いついたものを何でもそのまま投稿してはだめだ。俳句と同じである。今そこで起こっているできごとをただ羅列するだけで俳句になるわけではない。推敲が必要なのだ。たとえば今のギャグだとX向きにしようと思ったら何種類かの推敲パターンを試してみる必要がある。
笑うバッハ「バッハハハ」
機嫌のいいバッハ「バッハハハ」
バッハ「バッハハハ」
ゴッホ「ゴッホホホ」
ベートーヴェン「ヴィッヒヒヒ」
笑うバッハの母「バッハハハ」
こういった可能性を追求する。「続きまして」と言われて新たにギャグを考えるとき、必死でひねり出したギャグをついそのまま投下しそうになるけれど、ぐっとがまんして、いらすとやで程よいイラストを探している間もずっと推敲を続ける。
なおこういった構文がタイムラインにおいて一般的に見られる、いわゆる「調教されている」状態だと、逆に、「X向きの整えは飽きられる」。その場合はむしろ、
バッハが笑ったよ! バッハハハ!
のまま、さも投げやりに投下したほうが、目の覚めるような今更感によってフォロワーたちの生活が潤ったりもする。これはべつに、一切推敲していないのではなく、十分な推敲の末に、一周回って、「逆に」、達人の剣ほど削ぎ落とされてシンプルであるように、十牛図が循環して元に戻ってくるように。
ひとつのギャグを「図」と考えた場合、その「図」がどのような「地」に置かれることになるのかをきちんと考慮する。図と地の双方に目配りをせずに勢いだけで、ああ今思いついちゃった、バッハが笑ったよ バッハハハ とやるのと、最近のダジャレの流れとしてカギカッコを用いた構文が多いなあ、だったらストレートに バッハが笑ったよ バッハハハ とやるのとでは、下ごしらえにかける手間暇がまるで違う。刺し身。刺し身といっしょだ。仕入れ、場所えらび、切り方、盛り付け、醤油、薬味、料理の出る順番、店のたたずまい、コースの料金、客層など、すべてがひときれの刺し身の味に影響する。それといっしょだ。ギャグの味わいは千変万化。推敲なくしてギャグはあり得ない。バッハハハ! おっバッハくん今日も楽しそうだね。なんだよ偉そうに。あんまりそうやってヴィヴァルディよ(いばるなよ)。これだ! いや待て! 考え直せ!