アホのダンスをアフォードするざんす

デスクトップの壁紙を毎日勝手に変えてもらえるやつを使い始めてしばらく経つのだが、日によってけっこうハズレがあるのでおもしろい。not for meが自分のまわりにあること自体がおもしろくなっている。今日の壁紙はサイ同士がチュッチュしてるやつだ。なんだこれ。すごい写真ではある。これがデスクトップにでかでかと表示されるのがおしゃれだと思っている人が世の中にはいるということだろう。一部の自然や動物を愛する人がこういうのを好きだというのはよくわかるが、PCを使っている母集団の何%がこれに刺さるというのか。この理屈が許されるというならばそのうちアニメの美少女が表示される日があってもちっともおかしくない。書いていて思ったが、ほんとうに、ふしぎでもなんでもない。多様性というのはつまりそういうことだ。いいアプリだと思う。not for me, but for othersの世界を垣間見ることができるというのは、私のなにかをきちんと揺らしてくれる。


揺れればいいというものではない




能動と受動の話が気になっている。受動的にやってくる情報をある程度コントロールしてカスタマイズする、というやりかたはすごく身近になった。サブスクなんてまさにそういうものだろう。能動か受動か、あるいは中動的な受動か。このような切り分け方自体が、一般に行われている人間の基本的な活動原理の前ですでに前提条件化しているのかもしれないということを少しだけ思う。そして私は今もちょっとだけ、能動と受動の話、そこをコントロールしようとしてもできない私の性質・気質の話のことを気にしている。自分にいいことが起こりそうな受動の体勢をととのえるために何をするとよいだろうか? ヒントはWindows。答えはCMのあと。


CMが5億8000万年続くという可能性を考えていなかった。


なすためになされてしまう場に身を置くということ。アフォーダンスを選び取るという矛盾の中に身を置くということ。窓を開けるために窓をつくる。窓枠を通して見るために部屋の中に入る。そういった動きのこと。気にしている。窓の複数形だ。

そしてこれから私が気にすべきは他者なのかなと思う。行動の原理を自分の中に置きつつ、窓の外から飛び込んでくるものに恣意のふりかけをちょっとかけ、お湯を注いで粥にする、みたいな暮らしにおいて、自分の目でも言葉でもほとんど揺らいでくれないような他者、もしくはけっこう揺らいでしまう他者、私が外から飛び込んでくるものに揺らぐのと同じくらいに、私が外部として介入することでたまに揺らいでしまう他者のことを気にかけるのが当然の順番なのかもしれない。でも私は他者がぜんぶ嫌いなんだよな。もうここまででいいかな。いつも思うが結局どうしたかというと、答えはWebで。