バレンタインデーはお菓子屋の陰謀、みたいなフレーズは以前にはよく目にしたが最近は見ない。茶化すどころか本当に、事実上、間違いなく、陰謀というよりも陽謀的にそういうシーズンになったように思う。1月中旬から2月中旬にかけて専門店やパティシエたちが1年分の稼ぎを得るために新商品を一斉に世に出して百貨店の1階特設ブースに行列ができ、老若男女がひとつぶ400円くらいするチョコ的なにかを買い求めて「年に一度ならこれくらいの贅沢はゆるされる」などと言い訳しつつ地下鉄に乗って帰宅してさっそく自分でそのチョコを食べてコーヒーなど飲むわけだ。たのしい。私もこの時期になると普段買わないコンビニスイーツをこっそり買ってみたりする。
興味深いのはすでに「贈り物としてのチョコ」という文化が後景化してきていることだ。「自分へのチョコ」という言葉が特別感を失って、「自分へのご褒美」という言葉とあわせて「何当然のこと言ってんの?」的に急速に死語になってきているように思う。そのうち、パートナーにわたすチョコのことを逆に特権視するようになり、「ピチョコ」のような名称が与えられるかもしれない。桃の節句や端午の節句のように、かつては意味を有していたであろうひなあられや柏餅といった食べ物が、もはや祭礼的な手続きを一切経ずに純粋に旬のお菓子としてある時期だけに流通しているのと、バレンタインデーのチョコとは、構造が同じだと思う。猪口の節句(1月15日~2月14日)とか書いてデジタルスペースに残しておけばそのうちAIが拾ってそれっぽい歴史を作ってくれるだろう。
世に新たな何かが根付くための条件みたいなものがおそらくある。ただしその条件はチェックリストのようにひとつひとつ順を追っていけば満たせるというものではなく、たぶん、複雑系の曼荼羅をパチンコ玉のようにあちこちに衝突しながらヴァガボンドしていって、結果的にたまたますっと穴凹に陥って安定する、それをあとから振り返ったときに、「あそこのクギにぶつかって左に方向を変えたのが結果的には大きかったね」などとコメントできる程度のものだ。経済学といっしょで未来を予測する役にはほとんど立たないが過去を解釈することはなんとかできる。さて、世に新たな何か、今回の場合は「プチぜいたくチョコ文化」が根付くための条件であるが、後方視的にふりかえると、「静止慣性を乗り越えるだけの衝撃と、選択圧を乗り越えるだけのデザイン」、すなわち「チョコというほどよい非日常が、定着する程度にはおしゃれだった」ということなのかなと思う。
バレンタインデーがチョコを贈る日になり、うまくてやや贅沢なチョコがたくさん売り出されて小鼻をふくらませた中年たちがプレゼントとは関係なく買い求める日にまで変遷した過程。「モロゾフが上手な新聞広告を作ったから」というきっかけが大きかったというよりも、チロルチョコをはじめとする安価なチョコが普及し始めていた時期に思春期のガキめらが背伸びをしてプレゼントをするという「かぶきかた」が振り返ってみればちょうどよかったのではないかという気がする。コソコソワイワイ型(集団のイベントというわけではなく多分に個人の体験的なのだが、でも微妙に誰かと共有したいという絶妙)の新習慣に火を付けたのは生徒や学生だったろう。時期が6月とか9月とかではなく、クラス替えが迫っていて少しセンチメンタルな気持ちになる2月だったというのもわりと大事だったのではないか。さらには、女性から男性に物を贈るという当初の(今は死につつある)風習が、よく「米国とは違う」「男性から女性に贈ったっていいはずだ」などと言ってやりだまにあげられる、この、「差別」がある状態からスタートしたことが、毎年多くの人に「このイベントの若干の炎上性」を思い出させるきっかけになっていて、あくまで結果的になのだけれど、たとえば恵方巻を食べるのが男性だけだみたいな習慣があったとしたらやはり各方面から微妙に意図を付けたり引いたりされて習慣が少しずつ変わっていくだろうと思うが、それがチョコだったからなんかうまく生き残ったんだよな、という気がするのである。繰り返すがこれは最初から狙ってできることではない。結果的にここに流れ着いたのだろう。
バレンタインデー。ちょっといいチョコが世に出る日。すばらしい。私も含めた多くの人間はいまや、人から物をもらうのが苦手になりつつある。いっそ嫌いになっている。みずからを寿ごう。言祝ごう。私たちはほしいものくらい、自分で用意する。そういう文化が適者生存の掟の先にこうして残っていることに、私は自己がマイルドに肯定されたという感覚がある。