『定本 夜戦と永遠/佐々木中』より
病理学は、長く臨床医にとって外在的に存在してきた、もしくは逆に、かえって、だから、内在的すぎるほど内在的に存在してきたのかもしれないということを思いながらこのくだりを読んでいた。なんでもかんでも自分の専門に引き付けて本を読むほどつまらないことはない。しかし、ときに、どれほど、日頃、常駐している、いつもの、例の、思考を紛らわせたいと願っても、思い出の手紙を読む声がだんだん読み手から書き手の声にフェードしていく安いドラマの技術のように、本を読んで著者の声に耳を傾ける私の脳内に、文字よりもはるかに大きな声で伴走/伴奏するかのように語りだす、物悲しくも自己顕示欲の強い私の、内在的すぎてかえって外在しているかのような悩みの人格。鎌首を擡げる。
私はルジャンドルのいう解釈者でありたいのだろうか。そうすればどうにかなるのだろうか。
私は病理診断というものが本当に存在すべきなのかどうかをいぶかしんでいる。AIによって取って代わると言われればこの仕事のどこをどう見たらAIで代替できるのかと鼻で笑う一方で、むしろ今のAIなどではない、もっとはるかに強力な別種の人工の知性であれば、病理診断の上位互換として、仕事の内容は従前とはまったく違うが主治医や患者にフィードバックできる内容量が今よりはるかにべらぼうに多い、なにかあたらしい仕事を生み出すことができ、それは結果的に、病理学というものが冷蔵庫に対する氷屋のように好事家以外にとってまったく不要になってしまう未来、に対する、期待と諦念と慟哭の感情を持て余している。だから私は本を読むといつでも指の汗でページをしわしわにしてしまい著者の用意した言葉を追えなくなって自分の脳内に響いた声との間で往復書簡をやりとりしてあだのような時間を過ごす。なかなか読み終わらない。なかなか読み終わらない。
私は学者である必要はなく医者である必要もなく、形態を言語に置き換える「だけ」のことに汗と血を失うつまらない戦争の尖兵である必要もなく、ただ、疎隔の位置で医療を解釈しつづける存在の門弟なのかもしれない。そうか、私が本当にやるべきは法学の理念の無情さに涙を流すことなのかもしれない。
複雑系には因果がなく根拠がない。論理的な帰結としてカスケードを追うことができないというだけで実査には因果も根拠も高次元において存在するはずなのだけれど、私たちは少なくともそれをランガージュの支配のもとにラングとして伝達することはできない。だから私は細胞形態を見てそれを言葉にしようと思っても、言葉にした瞬間から漏れ出て、にじみだし、しみこみ、「語られたもの」と「語った言葉」とはあいまいに癒合する。無理に離そうとすると汚い肉芽を作りながら茶色い液体を撒き散らして辺り一面を昨日とは違ったテクスチャに変える。疎隔にいながら疎隔を試み疎隔の破れる力を産毛で感じてこそばゆいと身を捩る。そのような存在の門前に立って、敷居を踏み越えるかどうかを、毎日のどをならしながら、迷っているのが、今の私だということだ。私は哲学者ほど分類に対しての冷めた目線を持ち合わせていない。腑分けと言分けの相似と差異についてのひねた韜晦を持ち合わせていない。