決して他を貶める意味で言うわけではないのでそこはわかってほしいのだが、これまで、なんらかの続き物の創作物について、「新刊が出てもきっと感想を書くだろう」と確信までしたことはたぶんない。それは読んでから決めることだからだ。それは読む前に決めてはいけないことだからだ。しかし田島列島『みちかとまり』の4巻については、まだ読む前どころかその物語はいまのところおそらく田島列島の頭の中にしか存在しないし頭の中にもあるいはまだ存在していないかもしれないのだけれど、おそらく、私はそれを読んだら感想を書き留めておきたくなることだろう。田島列島とはそういう稀有な作家なのである。そういう希少な作家というのはほかに誰がいるだろうか。名前をあげはじめると、名前をあげ忘れた人に失礼だから書かないことにする。
感想を書くというのは、自分がその瞬間ひたっている無形の感情を言語によって腑分けして解析する病理解剖のような行為である。ただ、今は、「個人の感想を誰もがみられる」という余計な社会の修飾によって、だいぶゆがんでしまった。「推し」とか「推し活」というのはつまり広告塔ワナビだ。「自分がなにかについてよい感想を述べる(目的)ためによい作品を読みたい(手段)」と公言してしまっている人間もいる。そこは本当にどうにもゴテゴテといろいろ飾り付けられてしまっている。さらに踏み込んだことを言えば、私は人間というものはおそらくワナビ的であるときにかなりいいバランスのホルモンやらケモカインやらをクラインするのではないかと思っていて、感想を書くことでいっそクリエイター以上にいい店で飯を食いハイエンドiPnoneで自撮りをする大手広告代理店営業係長の塗りすぎた日焼け止めで照り焼きのように輝く肌艶が保たれるという側面はたしかにある。何ワナビでもいいのだが広告塔ワナビくらいならほかにも喜ぶ人を生み出すことができるからまだかわいいほうだ。まあその理屈だと救世主ワナビと似たりよったりなのだけれど。
医療機器メーカーの営業からメールが来た。どうしても先生のお役に立ちたいのでZoom会議でよいので少し時間をくれないかという。詳しい内容を書いてこないので判断のしようがないがひとまずZoom会議を断る理由はないので日時をメールで返信すると、それに対する返信が毎日とどく。「お引き受けいただきありがとうございます」「明日になりましたがご確認のほどお願いいたします」「本日これからどうぞよろしくお願い申し上げます もし急なご用などございましたらぜひお教えください 先生のお邪魔にはなりたくないと思っております」。たったひとつの会議のために3通ものメールにいちおう目を通しておかないといけない時点でものすごく邪魔になっているのだが、この人はつまり、クライアントの役に立ちたいという目的のために行動しているのではなく「自分が誰かの役に立っていると実感できる状態でいたい」という家政夫のミタゾノワナビみたいな状態なのだ。それが悪いことだとは思わない。それが結果的に誰かの役に立ち本人にも納得の給料が入るのだからよいではないかと私も思うし社会もたいていそのように思っている。
広告メソッドでいろいろ動いている場所がどんどん嫌いになっていくのは私の性格にも問題があるのだろう。それこそ仙人ワナビなのかもしれない。ファッション霞食い。