テイクケアオブユアマウス

月に1度くらい歯医者に行ってクリーニングをしてもらう。虫歯の雰囲気はなく、ありがたいことだが、出張が増えると歯茎が腫れる。ブラッシングでいきなりブシャブシャ出血するわけではないしリンゴも丸ごとかじれる(かじる機会はない)のだけれど、ただ、歯科衛生士に拷問器具(比喩)でちくりと触れられたときに、ああ腫れてるなーということがわかる。微弱に痛むのである。口のあちこちがそうなっているというのではなく、なんとなく右の上の内側がなりやすいという傾向があって、やはり歯ブラシのクセとか圧の問題もあるのかもしれない。そして最も相関があるのは出張の回数と移動距離と睡眠時間と懇親会で飲んだ酒の量で、つまりは私の生活が乱れると歯茎も乱れる。バロメーターである。近年は、出先でもなるべく食事のあとには歯磨きをするようにしている。ただ、さすがに学会会場や研究会会場のお手洗いで歯間ブラシとかフロストまで使って完璧なケアというのはむずかしい。どうしてもおざなりになる。仮に出先で朝昼晩ねんいりに歯磨きをしても結局はふつうに仕事の圧によって歯肉もダメージを受ける。歯科衛生士に「出張したんですね」と言われて口を開けたまま「んい」とか「んん」とか答える。歯ブラシ強く当てすぎてないですか? ないですよね。ほかのとこはちゃんとできてますもんね。んい。ん。んんう。なんでこちとら口開いたまんまなのに返事させんの? 鼻息でモールス信号しろと? ンッフッフー、フー、フー、フー、ヌッフッフー。


だいたいこれくらいの壊れ方。文体のことではない。人体のことだ。学会ではしだいに前のほうに座るようになる。偉くなってマイクのそばですぐにしゃべれるようにスタンバイしているからではない。目がかすんでスクリーンが見えないからだ。しかしあまりスクリーンに近すぎると今度は頸椎症のくびが悲鳴をあげる。膝はまだ大丈夫だ。腰はもうだめだ。腹は出る。内臓ははがれる。肺はやる気がなく心臓はおびえている。脳は浮気者だ。ほんらい考えるべきではないことばかり考えるようになっている。肌が割れる。さけてひびが入る。腎臓はどうした(キャベツはどうしたのメロディで)。そういった不調の数々にはバイオリズムがあり、同じ会場、同じ場所で、同じように体験しようと思ってもいつもより調子がよい日もあればぜんぜんだめな日もある。波がある。うねりがある。そういったものを歯茎から感じる。かつて「皮膚は愛の臓器だ」と言った皮膚科教授(故人)がいたが、口は愛憎入り交じる臓器だ。私の内側はどこまでか。私の外側はどこからか。私とそれ以外とを疎隔する場所。境界で内外が互いに侵入し合う場所。口内炎は口外するな。それは露出狂と相似形である。