ACジャパンがあるならBDジャパンもある! とつぶやこうとしてふと立ち止まる。それを言うならA.D.とB.C.ではないか。ぼくたち/私たち//入れ替わってる~!!?!?? 思い出したが今、入れ替わりが熱いのは、『みちかとまり』だ。完結したら大騒ぎするからこのマンガのことを一切知らない人はそのままで、知らないままでいいのでしばらくみかんでも食べて過ごしてほしい。つい先程「つぶやこうとしてふと立ち止まる」と書いた私ではあったが、いまやつぶやくところなどないのでこれはテレビ用に盛った発言であった。クロちゃんを笑えない。
Xにはブログの更新、尊敬する他人のリポスト、他人の記事を読んだ報告のポスト以外を投稿していない。Threadsでは萩野先生を見に行った帰りにブログの告知をするだけ。Blueskyはいまだによくわかっておらずブログの更新告知だけ。Facebookにはいつのまにか水着の女性しか出てこないが医者の飲み会の写真しか出てこないよりもよっぽど健全ではある。mixi2はダジャレ。すなわち私が「いまどうしてる?」をつぶやく場所はもうない。いまをつぶやいたらストーカーが追いかけてくる。「いまなにを考えてる?」をシェアする年齢でもない。
私はこうして「つぶやかない」人間になった。「つぶやかなくてもいい」人間になった。
ノーチラス号が! 脳散らすGO! 仮に、たいして文学少年なわけでもなかった幼少のみぎりに、あらゆる事象がダジャレとひもづけられる中年の高度な知性を手にしていたら、数少ない読書の時間にも気が散ってしょうがなかっただろうから、よかった。ダジャレに絡め取られるのが40を過ぎてからで、よかった。30代前半から40代の中盤までの、いちばん自分が好きでしょうがない時期、いちばん自分が成長しているように感じられる時期、いちばん自分が中心で世界が回っていると思いたくなる時期に、Twitterという「半年ROMってもfusianasanに引っかかるツール」とごく近い距離で過ごしていたことは、私のとがりやギトつきの部分を研磨することにずいぶん役立った。外界からの微弱な刺激に対する応答のすべてをSNSに放流していたあのころ、私はたしかに増長し、鼻っ柱を折られ、承認欲求を満たしつつ、絶望をレンジであっためてホットマスクにしたものを目の上に乗せて疲れを癒やした。これを言ったら怒られる。これを言ったら嫌われる。これを言ったら嫌いな人に好かれる。これを言ったらSNSでの評判が上がり現実でほしいものから遠ざかる。これを言ったら、私は、私以外にフォーカスが合わない目を持つことになる。これを言ったら、私は、自分ではないなにかのためにあつらえる言葉を手放すことになる。私はたくさん学んだ。いろんなものを失い、同時に、人の間にいるための「姿勢」を身につけた。背筋ののばしかた。頸の角度。目線のくばりかた。舌のしまいかた。本来、10代から20代にかけて、対人・対書物とのやりとりで涵養するべき、「社会という曼荼羅の交点におさまるのにふさわしい立ち居振る舞い」を、SNSを介してむりやり矯正した。社会人養成ギブス。
ACジャパンがあるならDCジャパンもある! いや、社会は交流の場であって直流の場ではないほうがよいのでDCジャパンはないほうがいいだろう。思ってもつぶやく場所はもうない。私はもう病理医ヤンデルではない。ブログを書いて投稿しようと思ったそのときにメールが届く。先日の研究会で病理に関する質問を投げたところ、がん研有明病院の病理医から丁重な返答が届いたのである。ありがたいなと思って読む。「ご指摘ありがとうございます。先生のおっしゃるとおり云々……」。ありがたいなと思う。ミクロ画像が1枚添付されている。添付ファイルのタイトルに「ヤンデル先生へ」と書かれている。ああ、そうか、この先生もご覧になっていたのか。私は今も病理医ヤンデルだ。この名のおかげで私は人と人の間で暮らすことができるようになり、今はなんかちょっとうっとうしいなと思っていて、親が面倒に感じる思春期かよと自分で自分につっこむがそのことをつぶやく場所はもうない。