小林銅蟲先生の画風が少し変わっていた。さいしょ別人なのか? と思った。セリフまわしだって偽装しようと思えばできるだろう。しかしなんというか、ネームの骨格というか、配置や展開はたしかに小林先生そのもので、なにより、作品と読者の間にきちんと数枚の薄皮が設定されているあの感じは真似しようと思っても真似できるものではない。やはり間違いなく小林先生なのだ。「めしにしましょう」の続編、うれしいことである。
先日、明石家さんまとマツコ・デラックスと安住紳一郎がいっしょに出てくる番組というのを見た。それぞれの過去の映像、かれこれもう20年以上前の、画面比率4:3アナログテレビ時代のノイズだらけの映像が次々出てきて、たとえば明石家さんまにしても安住紳一郎にしても当時着ているスーツの肩がやけにしっかりしていて、ヘアスタイルはいまよりも前方にボリューミーで、全員肌がしっかり持ち上がっている。つまり「ガワ」の部分は今とはだいぶ違う。しかし驚いたのは3人とも声質がぜんぜん変わっていないということだ。インターネットで過去を見ると我々はすぐ変わった、なくなった、失われた、ロストエイジ、みたいなことを言うのだが、見るから悪いのだ、聞けば変わっていない、ということに今更ながら少しおどろいたし、なぜかはわからないがちょっと気持ちいいなと思った。
ドリフのバカ兄弟コントの「やっぱりあんちゃんだ」みたいな顔をしたくなることが一年のうちに何度かある。それは言葉とか絵とか音とかが思っていたものとビタッと合っているレベルの快感よりも一段高い、もしくは深い、髄鞘のない神経を刺激が跳躍せずに伝わっていくときのじんわりとしたカタルシスに近い、「感性がマージしたきもちよさ」である。
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
ツツテーレ!!ツツテーレ!!ツツテーレ!!
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
バラララリララララリラリリララロロロラロロロ(ズンズカズンズカズンズカズカズカ)
ツツテーレ!!ツツテーレ!!ツツテーレ!!ツツテーレ-
デレッテテレッテテロレリタラランレンレンデレッテテレレ!!(ツーツカツーツカツーツカツーツカ)
ていうのを見て、
◯◯◯◯◯◯◯の◯◯だなと気づいた深夜、すぅっと心の中に涼風が通り過ぎたような経験が、みんなとは言わないが、誰かには起こったことがあるだろう。ん? なんだなんだ? 文字で言われてもわからんよ。言語が変わったらわからんよ。ガワが変わったらわからんよ。ぶつぶつ文句を言いながら脳のふだん使っていないところを総動員して「翻訳」を試みるのだが、AをBに単純に変換するというAIでもできそうな作業だけだとどうもうまくいかない。これはどういうことなんだろう、これはなにを表しているのだろう、ここにはどれだけ「当事者」の魂がにじみ出ているのだろうと、いろいろ試行錯誤をしているうちに、あるとき突然、「あっ!」となにかがピタッとはまって、対応関係というか、もっというと「感じ」のようなものが見つかってこれは確かにこうであるということがわかる瞬間がくる。
その気持ちよさは、食欲とも性欲とも睡眠欲ともあまり関係がなさそうだ。「ぴったりハマる」ときの快感というのはなぜ脳に設えられているのだろう? いくつかの仮説はあるのだけれど私はここで、「親や子の見た目が変わっても、やっぱりそれがまちがいなく家族なんだと納得できる瞬間を、『気持ちいい』と感じる脳のほうが、生き延びやすかった」という説を押しておきたい。