ドントシンク

私が抱えるあれこれのうち、どこを削ると楽になるかなーと考えるとやはり服飾だろう。服の世界は幅広い。お金をかければいいというものではないというのはご存知の通りだ。しかし安い古着で揃えておしゃれなカッコウをしている人間のほとんどは、古着をたくさん買うためにあちこちに遠征していたり古着をかっこよく着こなすための雑誌を買い込んだり古着の似合う役者を見るために映画やNetflixを丁寧に見たり古着の達人どうしで飲み食いをしたりしているので、結局のところ、服の「布」そのものには使っていないにしてもおしゃれ全体で見ればかなりの投資をしていることに代わりはない。そしてこれはなにもお金だけの話ではない。「服に興味を持ち続ける」ということに精神の何割かを融通し、服飾専用エンジンを常にアイドリングさせておいていつでもロケットスタートできるようにする、そういった、「服のために知性を割き続ける」ということが大きなコストである。したがって、現在、どうやったら脳がリラックスできるか、どのようにしたら少しでも脳の負担を減らせるかと考えたら、まず削るべきは、おしゃれの部分だと、私は、考える。

次に削るとしたらこれはしょうがない、飲食を削る。飲食の世界は個人的には服飾よりもすこし単純に見える。お金をかけなくてもおいしいものは生み出せるが、お金をかければかけるほど基本的に人からチヤホヤされ、お金と味とのバランスというかなりわかりやすい平面プロットでなんとかなる。服ほど複雑じゃない。だから服より先に切る部分ではないと感じる。要は、味というものは、距離と希少性と話題性くらいでだいたい決まっていて、パラメータが対して多くないというか、複雑系というほど難解な評価軸が必要ないので、基本的には万人が(お金さえあれば)楽しめるコンテンツであり、だからこそインターネットでもマスメディアでもどちらにおいても飲食のほうがはるかに人を集めるのである。ちなみに金なんかなくてもうまいものは食えるといっている人間の大半は都会から遠いところに住んでいて、同じだけのものを東京の人間が食べようと思ったら交通費と宿泊費で結局都内で食べるのとそんなに変わらないというのは有名な話だ。「私たちは情報を食っている」というがそれはつまり何を言っているかというと「飲食を楽しめる私は情報をたくさん収集することができる」ということで、これはものすごく単純化すると「私は頭がいい」と言っていることと一緒だ。つまりは飲食もまた脳のリソースを消費することではじめて楽しめるものであり、だから、現在、どうやったら脳がリラックスできるか、どのようにしたら少しでも脳の負担を減らせるかと考えたら、次に削るべきは、飲み食いの部分だと、私は、考える。

このようにしていろいろ削っていく。考えなければ楽しめない部分をひたすら削っていく。このとき注意しなければいけないのは、あまりにいろいろ削りすぎて自分が不健康になってしまうことで、「健康な状態を取り戻すために」脳を使わなければいけなくなってしまいがちだという私たちの習性だ。服飾、飲食と削っていく過程でちょっとでも維持管理を失敗すると浮いた脳のリソースを健康とか医療に割かなければいけなくなって本末が七転八倒するのである。すなわち、現在、どうやったら脳がリラックスできるか、どのようにしたら少しでも脳の負担を減らせるかと考えたら、絶対に削るべきは、健康でいたいという欲望の部分だと、私は、考える。

服に気を配らず飲食にも頓着せず、かつ、規則正しくバランスの取れた生活をすることで健康に気を配るということもしてはならない。これらはすべて、限られた脳の余力を消費する行為だからだ。このようなことを何年も何年も考えた結果、つまり、脳をリラックスさせ、脳の負担を理論値の下限にまでとことん下げるための究極の方法とは、「仕事しかしない」ことだと私は考えずに感じている(考えると脳を使うので考えてはいけない)。