学会の委員会に出席するために訪れた遠方の温泉地で、私はうっかり二泊した。当地には一泊だけして、委員会が終わったらさっさと羽田あたりに帰ってきてそこで一泊すれば、合計して二泊になるのはやむをえないにしても、少なくとも三日目の朝のうちに札幌に帰ってはこられた。しかし私は、なんというか、いい加減うんざりしていた。なぜこれほど激烈な日程を選び取って必死で帰ってきて、へとへとになって出勤し、おみやげをスタッフに配りながら「不在にしてすみませんでした」と謝罪などしつつ、込み入った仕事に戻らなければいけないのか、がんばり鍋の〆がごめんラーメンといういつもの展開、はっきり言って食傷であった。だから、私はとうとう、「もうちょっと早く帰れたけれど少しのんびりする」という選択肢を選んだ。
明けて医師22年目。私はついに、仕事以外の予定で出張を半日伸ばした。
仕事を終えて、夕方。
日はまだ沈んでいない。
私は分岐した。私は鏡の向こうとこちらに分かれた。私はパラレルワールドの住人であった。トート型のかばんにワイシャツ2枚を突っ込んだ私のゴーストは、空港行きのリムジンバスに向かって猛烈な早足で歩いていった。それを見送る私はホテルについた小さな温泉に向かうのだ。胸が苦しいくらいの喜びに満たされた。狭心痛ではないのかと心配になった。
夕方。日はまだ沈んでいなかった。
脱衣所にはスリッパがひとつしかなかった。最高のタイミングだ。
小ぶりだが露天までそなえた温泉が私の眼前に広がった。先客はただ一人。
居酒屋の入口にかざってある恵比寿様のような立派な腹をたたえた、背中の丸い、60前後の男性。髪の毛はそんなに多くはないが禿げ上がってもいなかった。
目は合わなかった。湯船のへりに立っていた。窓のほうを向いていた。
その背中に、立派なタトゥーがあった。
久々に見た。
「入墨禁止」としっかり書かれた風呂場。山奥の渓流の中にある混浴の自然温泉などではない、ホテル付属の大浴場。
場違いにも思えるタトゥー。
いやだ、とか、こわい、より先に、「へえ……」と思った。
私が洗い場に行って頭を洗っているうちに、彼は手ぬぐいで体を拭いて脱衣所のほうに去っていった。
私を気にしたのだろうか。それとも単に、もう十分に満喫したから出ていったのだろうか。
少し悪いことをしたかな、と思いつつ、私は湯船に浸かった。
入口のサッシの向こうに、脱衣所がわずかに見える。タトゥーの男は髪を乾かしているのか、体を冷ましているのか、のんびりと歩き回っているようで、ガラスのへりのあたりに、彼の肩のあたりがときどき見えた。
脱衣所のロッカーのカギを壊されて、部屋のカードとスマホを持っていかれたらどうしよう、と思った。
でも、あれくらい「枯れた」タトゥーの男が、そんなことをするだろうか、とも思った。
ここで脱衣所から目を離していいものか、少し躊躇したが、結局、私は露天風呂に出た。とても狭い露天風呂であった。大人ふたりが入るともう狭い。かたちばかり、といった風情だ。
もし私が、もう少し早く風呂に来ていたら、屋内の風呂もそこそこに露天に出て、そこでさっきのタトゥーの男と鉢合わせたのだな、ということを、妙に解像度の高い想像と共に私は考えた。
日はすでに落ちつつあった。強い風がついていた。目隠しのすだれが飛んでいきそうであった。
露天の入口のドアを締められたらどうしよう、などと、そんなことをして誰がなんの得をするのかわからないことをいくつか考えた。
あまり落ち着いて入っていられなかった。露天を出て屋内に戻る。内湯にもう一度入ろうと思った。誘惑にかられて脱衣所のほうに目をやる。
男はもういなかった。
内湯に入り直した。しかし、落ち着かずに数分で出て、かけ湯で体を軽く流し、体を拭いて脱衣所に出た。気持ち、いそぎめに、バスタオルで体を拭き、浴衣を着て、髪も乾かさずに風呂場を出る。エレベーターが自分の泊まっている階とは違う階で止まっていることを確認してからボタンを押す。部屋に帰り、ベッドに座って買っておいたビールを開ける。一口飲むところでふと気づく。猛烈な勢いの汗が吹き出ている。ビール一本を飲み終えたところで、部屋付きのシャワーをもう一度浴びることにした。温泉の効能が排水溝に流れていった。