野菜をどのタイミングでどれくらい食べるかということを、わりと毎日、気にしている。「野菜を気にしている自分」のことが好きなのだ。くだらない人間だ。できればくだらない人間であり続けたい。最近の興味はさらにもう一歩すすんで、「たいていは皮をむいて食すが、じつは皮をむかなくてもいいし、なんなら皮をむかないまま料理したほうが栄養が取れるみたいなムーブをかませる野菜」のことを気にしている。ほんとうにくだらない人間だ。ごぼうはいける。皮ごとでも意外といける。にんじんはなぜか、気分的に、皮をむいたほうがいいという先入観が強く、なるべく皮をむくようにしているけれど、じつはむかなくてもいいのではないか、ということを、近頃は3日にいっぺんくらい考えている。じつにくだらない人間だ。
毎晩冷凍うどんを食べていた30代前半のころ。タマゴは入れる。パックのおかかを入れるか、わけぎを入れるか、どちらもいれるかいれないか。横幅がほとんどない道をまっすぐ突っ切る飯の食い方。1年半くらい同じ晩飯を食っていたあのころよりも、今のほうが、肌はやつれ、髪は白くなり、体重は増え、視力は落ち、性格は悪くなった。健康というものは何をしたから達成できるというものではなく、なんか、時制と運とで決まるのだろう。以上はすべて、医師免許を持っている人間が世に残す文章ではない。知ったことではない。まじめな医療情報を求める人間はこんなところでブログなんか読まずにもうちょっと切れ味のあるVtuberをおいかけたりしている。気にしてもしょうがない。それにしても、なにが「健康というものは」だ。大上段に構えちゃってカッコ悪い。「〇〇というものは」ではじまる弁舌で私たちが唯一許せるのは歴史に関するこれだけだ。ほかは認められない。
歴史というものは、大変、素晴らしいもので、終わる歴史もあれば続いていく歴史がありますねえ。そういった札幌の、私の、影響を受けておるバンドの人たちは、ずーっと、こう、歴史が続いていっておるわけですねえ。その分、こう、重さを作品に表しておるわけですねえ。そういう表現、歴史から派生する表現をされている方々です。私もそういった、自分のその心の奥底から湧き出る、自分の歴史。自分の思想。色んなものを全部ひっくるめて、こういったロックンロールにあらわしたいと思って、そしてそういった先人たち、この札幌の素晴らしいバンドたちのようになれればよいなと思ってやってまいりました。まあ少なからず少しだけは、あの、近づけたのではないかと、私は誇りに思っております\よくやった!/
忘れないな。こういうの。
医療情報か。もう、なーんにもしてない。リポストすらしていない。一時期は医者のあつまり(学会)でも、SNSを用いた市民向け広報という話題がすごく盛り上がったけれど、あれは単なるはやりだった。すたった。「廃った」をひらがなに開くとなんかスタッと着地したみたいでかっこいいけど、実際にはぼろぼろに劣化して砂になるくらいの意味であり、表示と意味とにディスクレパンシーがある。ディスクレパンシーってカタカナで書くとすっごい変だな、なんか壁に絵とか書いてそうだな。ところで私はポケモンのサトシのモノマネをひとつだけやることができます。「ディアンシエアァーッ!!」(※ディアンシーを呼ぶときの声)すっごい似てるから当時の小学生にはめっちゃ受けて人気者になったよ。うそだけどね。
医療情報を世に広めていくことについて、現在、等身大の、野菜の摂取量を気にするくだらない私は、いくつかの学会の、ホームページの改修をやっている。どの学会でも、正式な委員会のメンバーにしてもらえるわけではなく、なんか、ワーキンググループとか、プロジェクトグループとか、つまりは、「名誉はやらんが仕事はしてほしい」という中二階みたいな宙吊りのポジションを与えられて働かされている。これをやったところで、将来にわたって、誰かの役に立てるかというと、まあ年に数人の役に立てるか立てないかといったところだろう。かつてのSNSのフォロワーの数と比べると雲泥の差だ。でも、それでいいのだと思う。野菜の皮をむかないで済む料理のことをずっと考えている私なんぞはそれくらいがちょうどいいのだ。