跛行色の覇気

春を待つ。腰は痛む。原稿が進んだ。いろいろなものをやりすごしながら少しずつ違う自分になっていく。奇岩信仰の対象になる岩のようなものを思う。いちど信仰が入ったら、風雪によって削られようが、雷雨によって砕けようが、もう、そこには永遠があるのだろう。となれば私も、自分自身を信仰すべきだろうか。そうしないといつか、ここに何があったかを不安に感じながらも思い出せない、地方都市の雑居ビルのように朽ちて自己を忘れることになるだろうか。


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病理診断とはふしぎなものだ。「誰かがすでに診断したプレパラート」からは覇気のようなものが失われる。理屈はわからない。感覚がそう言っている。若手に勉強させようと思い、症例リストをめくって探して、「過去にこんな珍しい症例があったんだよ」と、何年も前に自分が診断し終えているプレパラートをひょいと渡す。2時間後、その若手が、「へぇー! 珍しかったですね! 勉強になりました!」と言ったとしても、信用してはならない。実際はそんなに勉強になっていない。「活きのよさ」が失われたプレパラートから得られるものは、思いのほか少ない。その若手は、◯十万人に1人の珍しい病気の姿を見ることができて充実して喜んでいる。しかし、それは、教科書や論文でレアな病気を見ているのと、何も変わらない。そのような疾患が「まだ診断されていない状態で」、「まだ疑われていない状態で」、いちからプレパラートを見て、その病気であるという気付きにたどり着くまでの経験に付随して得られる稲妻のような衝撃と地すべりのような動揺は、すでに診断が終わっているプレパラートからは得られることがない。

ちなみに、たとえば、「これは昔のプレパラートなんだけど、診断や所見を見ないようにして、自分で診断してみなさい」と言ったとしても、だめである。若手にそうやって過去の症例を診断させて、「自信はないですが、いろいろ考えてみました。どうですか?」と返ってきた所見を読むと、あまり顕微鏡に集中できなかったのだろうなという雰囲気が伝わってくる。ここぞという検討ポイント、悩んでほしい部分、ひっかかってほしい凸凹の部分が華麗にスルーされている。結局、それは、「上司が選んで手渡したのだから、そこには何か勉強になるものがひそんでいるのだろう」という予感と共に観察されている時点で、ミステリアス、ミスセンス、ミスレイニアスなものを剥ぎ取られているのである。

世の誰もがまだ見ていない、検討をつけていないプレパラートほど、勉強になるものはない。

だから、それで、昨今の私は、自分で診断する件数を減らしている。仕上がってきたばかりのプレパラートを一瞬見て、緊急性がないこと、難易度が高すぎないことを確認したら、診断をしない状態で専攻医やバイトの若手にファーストタッチしてもらう。わからないと言ったら導く。わかりそうだと言ったらまかせる。そういうやりとりをすることは、自分で診断をするよりも何倍もめんどうで、たくさんの症例が、私のではない頭によってまずこねくりまわされ、私のではない語彙によって所見としてまとめられていくのを、私が診断しなかったばかりに患者に対して不利益が及んだということのないように、監視の目線で眺めながら、しかし、実際には、私が書くよりもなんだかうまいこと書けているのではないかと、若手から教わることも日々多く、結果として、手間も時間も余計にかかるがわりと診断自体はうまくいっている症例が増えていて、なんとも、私の存在意義というのはこれほども、自らの手に跳ね返ってくる感触がないものなのかと、じつと私以外の誰かが診断し終わったプレパラートを見る。そこに覇気がないことを悲しく思いながら、見る。