fusianasan

先日講演をした際、朝きちんと合っていることを確認した腕時計がなぜか自分の出番の前に8分遅れていて、それに気づかずに講演をスタートし、途中、座長の先生に「あと◯分ですね?」と確認した際に、なんか微妙に話が噛み合わないなーと思いつつも、まあ、無事時間内にしゃべりおわったーよかったーと思って、拍手をあびながら演台から降りて、会場に戻ってふとスマホを見たら思ってた時間じゃなくて、あっあれっ? なんで? なんで? と思ってあわてて腕時計を見るとがっつり遅れていることにそこではじめて気づいて、「うわあ何が起こったんだァ!」→(英語にすると)→「what's happened!!?!!?」→(つまり)→「8分だけにね」ってオチまで付けた自分がもうほんとにだめだなと思った。

ともあれ講演はまあ好評。しかし、人々の評判を聞いているうちに、ああ、また、なんかちょっとやらかしたな、と、反省で心が足からじんわりと冷えていった。

どうも私は、人前でしゃべっているときに、学術ではなく自分をプレゼンしてしまっている気がする。若い頃ならいざ知らず、今もずっと。

「先生の話は講談師みたいですね」「ラジオDJみたいでめちゃくちゃ上手だなと思いました」。終わった直後はこっちも相手も興奮しているからいい。正直うれしい。しかし、数日後に同じ方に講演の話題を振ると、もう雰囲気しか覚えていなかったりする。「なんかすごい講演でしたよね。肝臓……超音波……でしたよね」。がっかりである。詰め込みすぎだからか? テイクホームメッセージを絞れば覚えていてくれるだろうか? いろいろ試行錯誤はした。じわじわと良くなってはいると信じたい。しかし、所詮はマイナーチェンジレベルでしか改善できていない。根本的にバージョンアップできた気がしない。

要は、「話をする自分」をプレゼンしてしまっているのだ。「話の内容」を伝える技術はこれだけ実践してもまだまだ二流・三流。「私」を知ってもらうのがまったく無意味とは思わない、そうやって出番をいただいているのだから「私」自身にとってはありがたいことだ、しかし、最終的に「病理学」が伝わらなければ意味がないし、甲斐がない。ひとたび私がしゃべったならば、その病理の話は聴衆の誰もが二度と忘れないくらいの深い印象を残せるようになりたい。しかし道は遥か長く険しい。



おいしいものが好きなのではなく、おいしいものが好きと言う自分が好きな人。

旅行が好きなのではなく、旅行を好きと言う自分が好きな人。

服が好きなのではなく、服が好きという自分が好きな人。

こんな人ばかり見るようになった。コンテンツが好きなのではなくて、コンテンツを好きって言っている自分が好きな人。いいね産業のデフォルトモードは推し活という皮を被った自分推し活。そんな時代の趨勢に、かくいう私もしっかり乗ってしまっている。「画像・病理対比が好き」なのではなく、「画像・病理対比の話をこんなにすらすら言える自分が好き」なのだ。講演が終わってからひとりうつむくことが増えた。「うつむく自分が好き」だからこうしてブログにまで書いてしまっている。重症である。


こういうときに無性にやりたくなることがある。聞くのだ。人の話を。自分を差し置いてコンテンツを純粋に伝えようとする先人たちの話を。「守破離」でいうならば、今の私はまだ守るところにすら達していない。見(けん)が足りない。門前を掃き清める回数が足りない。聞くべきだ。むさぼるべきだ。それはまちがいなくその人固有の体験であるにもかかわらず、コンテンツへの強すぎる愛ゆえにその人の存在自体が緻密な計算によって消しゴムマジックされているような、一流の推し活を。自己肯定感とは無縁の渾身を。いいね産業カスケードをブロックしてまるで異なるニッチでサバイブする孤高のオタク。講演が終わったときに、誰も私についての感想を一言も述べず、ただ、私が提示した学術のことで延々と盛り上がるような風景が、ゴールであり、そこからがスタートだ。そのとき私はようやく「上手な講演ができたなあ」という気持ちで満たされ、聴衆は誰もが私の顔を忘れる。Sageの手さばき、匿名の極意、たどりつきてぇ、ブログなんかうっちゃらかしてさ。