「NON STYLE石田の漫才を問う」というPodcastがあって、初回からずっと聞いている。けっこううっとうしい番組ではあるので、万人におすすめするつもりはないし、作り手の側もたぶんそう思っている。そしていわゆる界隈ではちゃんと話題になっている。漫才、お笑い、の頂点を目指す人たちが楽しめるようなチューニングに見せかけて、そこそこコアなお笑いファン(というか現在はお笑いファンイコールオタクという時代が来ているのでコア性はデフォルトかもしれない)をターゲットにした番組である。
ある回(これを書いている時点で最新の回)にて、こんなことが語られていた。そのとおりのフレーズではないが、まあ、私が聞けた範囲で、ということで紹介する。およそこんな感じである。
「漫才は、おもしろいネタ、だけでは通用しない。おもしろいネタを客席までデリバリーする技術がいる。それは圧と呼ばれたり、場を支配する力と呼ばれたり、熱量と言われたり、緊張、みたいなことであったりもする」
私はこのくだりを、出勤時、車から降りてデスクに歩いている最中に聞いたのだが、思わず立ち止まってしまった。まったくその通りだなと感じる。薬剤ががん細胞を倒すシステムの話にも通じるなあと、無駄に医学方面に転用して「学び」を広げてもいいのだけれど、正直、そのままの意味で十分おもしろいなと感じた。
「お笑いのネタ、脚本をきれいに作り込む才能」というのがある。そして、それを「おもしろおかしく演じる才能」というのも別にある。前者に長けているが後者がいまいちだったと自分で感じているお笑い芸人はその後、構成作家などに転じるのだろうという安易な想像が浮かぶし、自分は後者だなと自覚している最たる芸人はラーメンズの片桐仁なのではないかと思うわけだけれども、そういう「役割分担」は、まあ、あるとして、どうも石田とその回のゲスト(ザ・パンチのノーパンチ松尾)がしゃべっている内容は、漫才コンビのネタを書く側が、自分でネタを書きつつ「客席に届ける圧」もどうやって兼ね備えるか、つまり上手な者同士で分担するのではなく、理想的には一個人の中でどう両立させるかということを語っているように聞こえて、私ははっきり言って、強欲だ、と思ったし、お笑いの頂点を見ている人間たちは確かにこれくらい考えていて当然だろうな、ということを強く感じた。
お笑い芸人ではない私がこの話をさらに深く実感しようと思うとそれは結局、「自分の業界に似たような構造を探し当てて、そこに今の話のメカニズムと似たものを見出して適用する」というやりかたになってしまう。で、それをやると、続きを有料にできるタイプのnoteやマガジンでそこそこ売れるような記事が一本できるのだと思うが、どうも、今日の私はそういう「そこで私の領域にあてはめてみると」みたいなことをする気が起きない。その理由はいわゆる綺麗事、「お金を稼ぐことに対する忌避」みたいなふるくさい価値観、がたぶんちょっとはある。しかしそれだけではないと思う。私は、そういう我田引水を繰り返していると、それこそ自分の「圧」が減ってしまうのではないかということを、極度に恐れているのだと思う。最後の一文がほとんど何も考えずにすっとキーボードの上をすべってモニタに表示されたことに本当におどろいている。そうか。私は、自分の圧を保つために、この部分がずっと「潔癖」なのか。