ほっか医道弁

指紋認証が通らないくらい指先がパキパキになっている。もちろん乾燥がえぐいからではあるが、たとえば40分以上雪かきをするとてきめんに指先の皮膚ががさがさになるという感覚があり、私の履いているスキー用の手袋は、もしや、なにか、指先の水分を奪う機能でもあるのだろうか。ヒートテック的ななにかかもしれない。

雪かき時の手袋は「つける」「はめる」ではなく「履く」という漢字を使うほうがはるかに適切である。雪かきとは、手先に防寒具をつけてワキワキ、はめてピコピコというような能動的かつ前向きな所作ではなく、履いてつっかけて朴訥に仕方なく背中をむりやり押されて前に出されるような感じで踏みしめていくかのように抑え込んでいく後ろ向きな仕草だから、「履く」じゃないとしっくりこない。標準語のほうがまちがっている。それはそうだ。標準語を用いている人間たちはろくに雪かきなんぞしていないのだから、ニュアンスがわかっていないのだと思う。ファッションかなにかだと思ってるんだろう? 猫耳かなにかと勘違いしているんだろう? 地域の言葉には地域特有の選択圧がかかっている。方言には方位に根ざした合目的性がある。ほうっておいてほしい。手袋は履くものだ。私は間違っていない。



「研修医が、9時5時で働くことを選びつつ、人並み以上の業務能力を手に入れるというのはむずかしいのではないか」という内容のことを書いたら、タイムラインがそれっぽく選別されたのか、「NASAではふつうに定時に帰れるけれどみんなも知っている通り世界一の仕事ができる」「Googleの社員の勤務時間は極めて短い、ワークとライフをどちらも楽しめる」みたいな話が流れてきた。でも、これらは、私の言っていることとは人生の時相が違うのではないかと思う。9時5時の努力でNASAやGoogleに「入れる」というならわかる。しかし、普通はそうではないだろう。猛烈な努力と競争の末に、人とは違う卓越した能力を手に入れ、NASAやGoogleに入ることができて勤務時間が短くても大丈夫になった、という話だろう。「研修医の時代にめちゃくちゃ努力して、結果的に時短勤務でも一流の仕事ができる高給の病院Aに入ることができて、そこからは9時5時で働いている」という実例がどれだけあるのだろうか。NASAやGoogleのような病院Aをつくるのが私の夢です、というならば、だいぶ理解できる。

たいして努力もせず才能や資質や向いていた方角の良さによってNASAやGoogleみたいなところにスッと入社できる人というのもいる。でも、それは、受け入れ側が要求する職種の性質によるのではないかと思う。そして、医療業界に、そのようなタイプの仕事というのはどれだけあるのだろうかと疑問に思う。

たいていの医者は、手技や処置の技術を身につけるのに5年以上かかる。少なくともその5年の間は、向上心がちょっとでもあるならば9時5時というわけにはいかない気がする。ライフを大事にできない仕事なんておかしいよ、と言い続けてかたくなに5時で帰宅しつづけて、結果、おかしいクオリティの仕事しかできなくなってしまった医者というのはそこそこいる。でも、まあ、そこで「仕事は私の大事なものリストの上位にはない、自分の暮らしのほうが大事だ」と宣言しているならばたいして問題はない(患者には迷惑がかかるかもしれないが、それはチームで補完すべきことであるし、そのほうが社会としては健全だと思う)。

さらに付け加えると、人並み以上の努力をせずに「人並み以上の業務能力を手に入れたい」と言うのも勝手だ。夢を見るのはいい。でもそれは、まず無理なことだと思う。まして、人並み以上の努力をしていないのに人並み以上の業務をできると自任してリーダーシップを発揮しようとする医者は、チームを壊し、患者も壊しかねない。


医業じゃなければいい。しかし医学部には入ってしまった。となると次はどうするか。だいたいみんな、似たようなことを考える。これから稼げるトータルバウンティとそこまでにつぎこむ努力のバランスを考えると、医療にまっすぐ進むのは損で、商売をしたほうがいい、みたいなことを言い出す。いわゆる高偏差値の大学に多いという話を、教員の側からはよく聞くが、実際ほんとうにそうなのかは知らない。具体的なやりかたはこうだ。医学部を出た、もしくは現在在学しているという「ブランド」(言っていて悲しくなるくらい貧弱な話だ)をふりかざしながら、ベンチャーを起業する。これからはAIだ(書いていて悲しくなるくらい通俗な話だ)。「医学の領域にも顔が通じるぶん、ふつうの起業者より有利です」とか言って投資家からお金をひっぱる。他業界ではそこそこやられている技術を医療業界に遅ればせながら導入し、現場にぎりぎり応用できそうなproof of conceptsをなんとか開発して、ハゲタカ論文などを用いて「ほら、学術的にも妥当だと査読論文で証明されている」などと言い、学会のスポンサードセミナーやランチョンで名を上げながらさらに投資家から金を引っ張る。じわじわと「臨床実装のためには業界の先達とコラボする必要がある」といいながら大手にすり寄って、投資家がそっぽを向くタイミングの2年前くらいを見計らってニッチな技術を会社ごと売却し、CEOとかCCOとかCOIとかいろいろ三文字の役職がついた人以外はまるごと大手企業で引き取ってもらって、経営陣だけが多額の金銭を手にして人生前半のゴール。クルーザーとコンドミニアムと会員制バーとジャケットの下に着る無地のTシャツ(98000円)を買い揃えて悠々自適に過ごしながら、たまに経営コンサルなどをこなして業界にちょっかいをかけ続ける若年寄ないし一代親方的存在になることで承認欲求を満たす。まあこんな感じだ。このプロセスのどこかで振り落とされた場合には、すっかりほこりをかぶった医師免許(縮小カラーコピーラミネート加工済み)を名刺入れから掘り出してきて、営業の途中に立ち寄ったいち老健施設のセンター長になって名義貸し的にそこそこ高い給料をかすめとる医者になれば自分の人生だけは安泰である(社員は死ぬ)。

今書いてきた話は、方言のようなものだなと思う。私の思う標準語で考えると違和感しかない。しかしその地域に根ざした必然性と適者生存の理みたいなものがあって、「この場ではこうするのが一番だ」ということが時間とともに収斂された結果なのであって、外からいちいち正義感とか使命感などで矯正するべきことではない。

そういう人生を目指していますというならば、研修医が「5時に帰ってライフを大事にしますが、この業界で誰よりも優れた自分でありたいと思います、どうやって勉強したらいいでしょうか?」と質問することにも意味はある。んなはんかくせぇ話わからんけど金ちょしとけ。