もともと詩情など持ち合わせるタイプでもないのだけれど、次々やってくるメールに返事して半年以上先の講演のプレゼンを作ったり他部門の同僚の論文を手直ししたりとやっていると、心のあちこちから言葉が早退していくような感じ。ふと、気づいた瞬間に、自分のまぶたの重さ以外なにも感じられなくなっていて、ぎゅっと目をつぶって上から指で押し揉むとぐわんぐわんと脳が揺さぶられる。ただこの体感そのものが問題なわけではない。そうではなく、これだけの身に迫ってくるような体感に、それを引き受けて、こねてくれるはずの言葉が一切やってこない、働いてくれない、ここに猛烈な不全の本態をみる。
感覚したものが言葉になっていかない。何が困るか? 別に、周りの人々と辛さを共有したいとかではない。そこはあまり困らない。周りの人々から離れたいくらい疲れているのだからコミュニケーションのための言葉が出なくて困っているわけではない。
そうではなく、この場合に出てきてほしい言葉というのは、細胞にたとえると解糖系から出てくるATPみたいなもので、自らの中で生み出したらそれをすぐに別の回路のなかに放り込んでサイクリックに次の活動につなげていくための、燃料というか、エネルギーの運び屋的ななにか。何かを取り込んだり何かと接続したり何かと戦ったりするにあたってどの回路をどれだけ回してもATPが出てこないと細胞の動きはジリ貧になる、言葉が出てこなくなるというのはつまりそういう意味で困る。
そして、悲しいことに、私はこのATP的な言葉を欠いた状態でもルーチンの仕事をそれなりに、というかわりと納得できるレベルで片付けていくことができている。それはある意味、嫌気性環境下でもやっていける細菌みたいな機能を獲得したのだ。低酸素ストレスに応答できるようなバリアントを獲得して環境に適応した、みたいなものである。
私は日々を過ごしていくことができる。仕事だけでなく生活も回る。ご飯を食べておいしいなと思い(でも言葉は出ない)、はじめてまだ何か月も経たない(友人に誘われてこの年になってはじめたばかりの)ゴルフの打ちっぱなしでも人並みに練習ができ、まだ読んでいないマンガを大人買いして(例:薬屋のひとりごと)半日かけて一気に読み切ることもでき、ガンダムジークアクスを見に行っておもしろかったとPodcastにメールを送ることすらもできる。
あれ、言葉、あるじゃん、だって本を読んだり熱文字にメール送ったりできるんでしょう、ていうかそもそも仕事でだってさんざん言葉を使ってるんじゃないの、それって失語じゃないじゃない、と言われたら、そうなんだけどそうではない。
私は、社会の中でやっていくのに必要な言葉とは別に、自分の中から、自分を代謝しつづけるために必要な言葉が出てこないことをつらいしさみしいししんどいと思っている。そしてそういう言葉が出なくなると、あの、1年以上前に依頼を受けた、私のための本の原稿が、一切進んでいかなくて、今本当に頭を抱えている。毎日私の体に向かって突進するがごとき数々の体験を、高エネルギーを有する言葉に変えてどんどん食らっていきたいのに、それがちっとも出てこない、こんなこと、今まで一度もなかった、何をやっているんだ私のミトコンドリアは。