ラノベ原作のマンガを最近けっこう読む。①設定の妙によって生じる展開のハチャメチャさがおもしろい、②文脈を共有した人間同士だけが楽しめるサロン的気持ちよさがある、③主人公が成長しない(から未熟さにやきもきしなくていい)、などのいくつかの特徴があり、そのうちエンタメ的にうまく昇華されたものだけが私の手元にやってくるので(失敗作は知る機会がない)、だいたい外れがなく、いい時間つぶしになり、心がラクになる。強いて難点を上げるとすると、「めったに完結してくれない」ことくらいか。
ラノベがコミカライズされた作品(のうち私の目に留まるもの)の大半は、「ウィザードリィに端を発するドラクエ文化がベースのファンタジー的中世冒険活劇の変奏」である。したがって、巨悪だったりラスボスだったりが設定のあちこちにチラ見えするのだけれど、何年追いかけていてもなかなか核心までたどり着かない。「クリア」されない。まるでエンディングを見ずにサブクエばかりこなし続ける重度ゲーマーのような気分になる。もしくは原作が終了しても二次創作でいつまでも世界を広げ続ける人気同人作家の世界に迷い込んだような気分だ。「未完の大作」なんてものは大作家の最期の作品であると相場が決まっていたわけで、終わらないファンタジーなんてバスタードとガラスの仮面だけで十分だと思っていたわけで、しかし、いまどきのマンガってのはほんときれいに終わってくれなくて、おそらくあと20年もすると世の中には未完の良作ばかりがあふれてしまう、か、もしくはそういったものがすべて「一時的なブーム」として忘れ去られていくのだろう。終わらない作品世界が許容されるに至った背景には日常系ジャンルの隆盛があるのかもなあとは思う。
ところで唐突に思い出したが、火の鳥は、大地編が執筆されなかったし、「現代編は手塚治虫の亡くなる日に一コマ書かれる」という「超一流のうそぶき」も結局実現しなかった。だからいちおう未完の大作枠に入るのだろう。ただしあれはすでに黎明編と未来編とできちんとループしている。人生をかけて物語を広げつつ、宇宙の範囲はきちんと確定している。「未完だけど世界の全貌はほぼ見えている」ケースということだ。よく考えるとこれは単なる未完よりも一段レイヤーが多い。やはり手塚治虫だけはちょっと別格なんだろう。まあグリンゴとかネオ・ファウストは普通に未完だけど……。
パトレイバーが完結してくれていてよかった。阿・吽が完結してくれていてよかった。ダンジョン飯は偉い。ちはやふるは至高だ。私は古い人間なのかもしれないが、長く追いかけたマンガがきちんと完結することの美しさに心を持っていかれがちである。だから、最近のラノベ原作の楽しいマンガ達がぎっしり詰まった我がKindleを眺めていると、いちまつの寂しさを覚える。この転生ものは決して完結しないだろう。この冒険は決してラストシーンまでたどり着かないだろう。永久に続いていく豊かな幻想世界に囲まれながら、一方で、私自身の物語はおそらくあるところで唐突に先細って、理や因に乏しい「しまい方」を迎えることになるだろう。自分の人生が(よっぽど運が良くない限りは)大満足の終わり方なんて迎えないんだろうと予想するからこそ、物語だけには、「きっちり終わってほしい」と願ってしまう。まあ、尾田栄一郎先生におかれましては、お体に気をつけて、ちゃんと最後まで描き切ってくださいますように。