そうだおそれないでみんなのマンメンミ

ドルルンドルルンとエンジンの音が鳴った。そういうのはアメリカでやれ。屋内駐車場でやるな。改造マフラーは破裂音を繰り返した。運転手の顔が見えた。角刈りだろうか。目がらんらんと光っていた。昔のカメラで撮ったときの赤目のような。頭が悪いだろうと思った。ひどい言い方をする。私の本性とはその程度のものだ。しかしそれくらい言ってやってもいいだろうとも思った。そういうのは砂漠でやれ。砂漠に響く改造車のマフラー音を思って私はすこし恍惚とした。見てみたいものだ。タイヤは空回りし運転手の口の中に乾燥しきった砂が一気に流れ込んでいく。気管支の八次分岐を越えて肺胞上皮の表面に砂が付着する。マクロファージが反応できずに直接II型上皮が障害されてフィブリンが析出し、硝子膜が形成されて頭の悪そうな運転手の呼吸は急激に促迫する。あえぐ声をかき消すマフラー音。頭の悪そうな音が砂漠を遠ざかっていき三日月型の砂丘に反響して真の環境音楽と化す風景を私はまざまざと思い浮かべた。


車に興味がない。洗車もばかばかしく感じる。靴を磨くほうが建設的だ。しかしあまりに汚れすぎた車をしかたなく洗い始める日はある。晴れた休日。金属をどう拭いてきれいにするかという一連の手続きのところに、じつはそこそこ興味がある。洗車の目的=車をきれいに保つことは心底ばかばかしいと思うのだけれど、洗車という作業自体はおもしろがっている。どういうシャンプーを何につけてどうやって磨いていくか、どれくらい洗ってどれくらい乾かしてワックスをどう選ぶか、といった作業の選択の過程は楽しい。目的に価値を感じないが手段には価値を感じる。逆を述べる機会のほうが、普通は多いのではないか。私だって、そうだ。目的のためなら途中の手段はどうであってもいい、そっちのほうが普通なはずだよな。たとえば……金とか。どういう手段で手に入れても、結果として大金が手に入ったらそのほうがうれしいだろう。うれしいはずだ。……そうだろうか。待てよ、と思う。ちょっと考え直す。

私は、おそらく、そうではない。金を手に入れるという目的よりも、金を手に入れる手段の段階で一番興奮している。この手段をこう調整することでよりたくさんの金が手に入る、というとき、「たくさんの金」に興味を持っているのではなく、「たくさんの金を手に入れるための研ぎ澄まされた手段」を自分が扱っていることがうれしい。結局これは、洗車に対するスタンスと同じだ。◯◯のために本を読む。◯◯のためにどこかに行く。考えてみれば、すべて同じだ。目的よりも手段のほうに気を取られて目的はだんだんどうでもよくなっている。なるほど。そういう心なのか。そんなものかもしれない。

何のために生まれて何をしてよろこぶ、わからないまま終わる。そんなのはいやだ、とアンパンマンの歌はうたう。「何のために生まれて」は別にわからないまま終わってもいい。しかし、「何をしてよろこぶ」については、たしかに、わからないまま終わるのは、いやかもしれない。件のバカの車はやけにピカピカと磨かれていた。私がインクリングだったらスプラローラーでパステルカラーに踏み潰したあとフロントガラスにキューバンボムをべっとりくっつけてやれるのに。