人間が嫌いなので

飲酒量を減らしており、大塚製薬かどこかが作ったアプリである「減酒にっき」も毎日順調に稼働している。飲酒の有無と量(酒ごとに細かく設定できる)を記録すると、飲まない日には四つ葉のクローバーのスタンプが、少量飲むとほほえみ顔のスタンプが、大量に飲むと困り顔のスタンプが捺されてカレンダーが色鮮やかになっていく。この単純な仕組みがいろいろと私の精神を刺激する。私は人間が嫌いだ。画面の中に顔が増えていくことが我慢ならない。困り顔はもちろん訳知り顔のほほえみを浮かべた顔であっても腹が立つ。だから画面を四つ葉のクローバーで埋め尽くそうと必死になる。つまりは飲まなくなる。結果的に、かなりストイックな減酒に成功している。とはいえ、まだはじめて1か月。1年は続けてみたいと思うがどうなるだろうか。

酒を減らすとあからさまに腸の動きがよくなった。そして腹が減る。これまで間食をいっさいしないまま働いてきたが、最近は、職場のローソンや出先のセブンイレブンでカフェラテを買って飲んだり、ときおりタリーズなどでハニーミルクラテを飲んだりしている。トータルの糖質・脂質摂取量が増えていることが少し気になる。「タバコをやめると太る」と似たメカニズムがそこにあるのかもしれない。



メカニズムとは矢印で示せるものではないなあということを近頃しょっちゅう考える。一方向ではない。カスケードではない。曼荼羅のたとえをよく使うけれどあれを立体方向に拡充してさらに時間軸を前後に行きつ戻りつして見るものこそがメカニズムだと思う。ハンス・ロスリングのバブルチャートのプレゼンはいかにもメカニズムだったなあ。「えっ、あれはメカニズムじゃなくて単なる現象の記述でしょ」とか言う人間は何もわかっていない。だから人間が嫌いだ。

DNAは4.2進法くらいのプログラムである(DNAとRNAでチミンとウラシルが変わるからきれいな4進法ではないよね)というたとえ方も、昔はよく使ったけれど、今は不正確だと感じるようになった。プログラムは前から順番に読んでいくものだけれど、DNAは途中途中を同時多発的に読むものなので、運用の根幹の部分が異なっている。同時多発的に複数のアプリを稼働させている、と説明してもまだ足りない(アプリ同士が結果だけでなく過程の段階で相互に影響し合うというのはコンピュータのたとえを用いている限りうまく説明できない)。

プログラムは流れ・方向性がある。これは音声でのコミュニケーションに似ている。一方、DNAによる人体の運用はどちらかというと映像情報コミュニケーション的で、順番がまったく問われないわけではないけれど、画面内に本筋とはまったく別にうごめいているものがあって、かつ全因子が相互に関わって全体のニュアンスを言外に形作っていたりする。ト書きで書ききれない。ここまで書いてきてふと思ったが、実写映画よりもアニメ、それも制作会社がかなり気合いを入れて作ったアニメに似ている。実写と違ってアニメは、アニメーターが描こうと思ったものしか表示されない。偶然うつりこむ何かというのはない。えっだったら生命は実写映画なのでは、と言われるだろうが、逆で、生体内に存在するほとんどの物質は偶然そこにたまたまあるものという考え方はしづらく、神アニメーターが直観で描き入れた小物、みたいな風情のタンパク質はすべてDNA上でコードされている(ただし翻訳後修飾の部分には偶然が宿るかもしれない)。やはり、生命とはアニマであって、実写ではないのかもしれない、なんていう無理筋な逆説で下半身浴を極めて血管を開いてリラックスをする。ああ、でも、うーん、マイクロビオームのことを考える。共生生物は体内のアニメーターが一切描かずとも勝手に繁殖しているセル画のカビか? いやあそれでは説明しきれないな。やっぱりすべてがアニメーターに描かれた物体だけで構成されているというアニメの説明ではうまくはまらないかもしれない。あ、そうか、待てよ、原作小説付きのマンガのアニメ化みたいなものか。表現方法が変わっていくにつれて自動的に付加される、原作者がコントロールできないデザインのニュアンスみたいなものとも言えるか。主人公の服の色合いとか。声優の声質とか。声優の声を腸内細菌にたとえるなんてひどい人間だなと我ながら反省する。だから人間は嫌いだ。