さげすまないサゲ

米粒写経の映画談話室というYouTubeが好きで毎月見ている。映画評論家の松崎健夫さんが、先日、番組の冒頭のフリートーク的な部分で話したエピソードが印象的で、ちかごろよくそのことを考えている。

それは、「こんなにうまいものがあるのかと感動した」という言葉からはじまる。映画を見て評論をする以外の印象がまったくない松崎さん、着るものは黒で統一しており(選ぶのが面倒だからだろう)、映画以外の理由で旅行に行くこともなさそうな松崎さんが、めずらしく飲食の話などするので、その時点でかなりフリが効いていて、そうかそうか、どんなうまいものを食ったのか、とみんなワクワクして先を待つ。すると彼がこの度はじめて食べたうまいものとは、

「うまい棒 めんたい味」

であった。そんなこったろうと思った。

「いいですかみなさん! ひとつのことに人生を捧げてしまうと! こうなります! 人生の98%くらいを映画に捧げてしまったばっかりに! この人はこんなことに!」

中年も半ばを過ぎて、うまい棒のめんたい味をはじめて食べて感動するというエピソード。それを笑いながらも我がこととして受け止める私の心。近年、ときには「かわいい」とすら称されるタイプの偏り。毒はないがしびれる。自虐のような自尊。なんだかいろんなことを考えてしまう。

他者のあらゆる経験にいっちょ噛みできる環境に暮らす今において、「えっ、それをまだ経験していないの?」という驚きが強まっているとも言えるし、逆に、体験が個別化しすぎていてお互いの記憶を共有しづらくなっている今において、共通言語としてしっかり機能している「うまい棒 めんたい味」がすごいとも言える。真逆のことを言っている。しかしこれらは階層が違う話だ。

TikTokで万バズした動画のネタが半年遅れくらいで紅白歌合戦に流れたときに大人たちが「これ流行ったの?」と子どもに聞くと、えっ、今さら? と冷たい反応をされる、みたいなやつとも、構造としてはそんなに離れていない。でも、「うまい棒 めんたい味を生まれてはじめて食べて感動した中年」という内容には、ある種の断絶みたいなものがあまり感じられない。思えば不思議なことだなと思う。根本には、YouTubeの収録スタジオ内に、松崎さんの映画愛に対するスタッフ全員のリスペクトが注ぎ込まれているという前提があって、だからこそ温泉の泡のように暖かくはじける笑いが場に満ちたのだとは思う。

つまりあそこにあったのは、近年、あまり見ることのなくなった、

「それを今まで知らなかったの? →(からの)→ サイコーじゃん」

という展開というか空気だった。私はそれをなんだかすごく尊いと思ってしみじみ2回ほど見てしまった。今わりと切実に、「おかしのまちおか」に行きたい。