いとなみ

書こう書こうと思っている原稿を1年温めており、編集者からも「ゆっくりやりましょう 急ぎません」と言われているのでなお温め続けているという話を、何度かここで書いてきたと思う。わりとずっと気にし続けている。積ん読ならぬ積んタスク。積ん読を読書とかいう輩は、仕事を棚上げにして取り掛かりもせず毎日気にしている私のことを、神のごとくあがめるにちがいない。「それもまたひとつの仕事だ。」とか言ってくれるだろう。だって積ん読みたいなものだからな! ありがたいことである。こんなの仕事じゃない。しかし人生ではある。私はプロフェッショナルではない時間を過ごしている。私はアマチュアとして泳がされている。恥ずかしい。「積んでいること」に対する恥じらいを失った人間はだらしない。私は恥ずかしい人間ではあるがせめてだらしなくはなくありたいと思う。

夜、寝ている間、そして朝、特に早朝、とりわけ出勤の真っ最中に、原稿のことを思い出す。脳内でいろいろ「書いたり」あるいは消したりする。ただしその「書いたり」はもはや日本語ではない。浮かべたり消したりと言ったほうが合っている。すでに文章として書きつけている15000字程度をいつも覚えているわけではないから、だいたいあんなことを書いたはずだというイメージばかりを何度も転がしている。その過程がだんだん非言語的にとろけてゆく。文章に直接あたって表現を選びとるとか前後の整合性をとるとかではない、つまり、推すか敲くかという選択をするのとは異なる、心象風景の中で非分離状態でたゆたっている温度のムラのようなものを集めてこねたり指を入れて分離したりしているだけである。非言語的な思考によって仮想空間のこねくり回しを繰り返しても文字には全く反映されない。音がたくさん鳴っているのだがそれが声として意味をなさない。色がいくつも重ねて置かれても輪郭がわからない。

言語で思考する人間が多いのは本当だがすべてではない。言語で思考する人間の書くものばかりが世にあふれているのは、書くために言語が必要だからしょうがない。そして私達は間違いなく、言葉以外でも考える生き物である。知情意という言葉は情知意とならべたほうがいいだろうと言った人がいた。しかし知はやはり情より前にある。情は意に向かうにあたってかなり早い段階で言語の急襲を受けるので、私達は情も言葉であやつることができるが、覚知、感知の部分に関しては、意、あるいは言葉からなお遠いところにあるのではないかと私には思われてならない。情知意だと思っている人間の感覚ニューロンは言語によって補正されることに慣らされすぎているのではなかろうか。覚知とはもっと乱雑で因果がなく説明不可能なものである。その説明不可能なものから湧き出てくる、より動物らしい「情」の部分をあまりに言葉で近似できたばかりに袋小路に入ったのが人間の「知性」なのだろう、知性というからには覚知からスタートしていなければいけないのにみんななぜか言葉を中心に添えている。それは知性を積ん読して読んだ気になっている愚かな振る舞いなのではなかろうか。情と意の往還を人の営みということにして覚知の部分をいつしか近似的に情と意の間に置いてしまう、そういうものではない、知はもっと自由だ。私は知からもっと置き去りにされる。知はどうしようもない。知について考えるために言葉から自由になり、その自由さのせいで下腹部に妙な浮遊感を覚えて、気持ち悪くなって、膝と両手をついて大地に思い切り吐きたいから、重力が必要だ、脳のてっぺんからかかとの紋理まで貫通する未分化な情、から 意までを瞬時につなぐ春塵のような言の葉の吹雪に私は猛烈な重力を感じて大地に落下して快感を伴う嘔吐をする。マロマロマロマロ! まろーりとろけたワイズの吐物。それが言語だ。編集者はそういうものを読みたいと言っている。まだ気持ち悪い。ずっと気持ち悪い。