ビグザムっぽい撃ち方

どことなく落ち着かない日が続いており、おそらくこの気分は12月くらいまでは続くだろう。いくつかの意味で引っ越しが近づいている。いわゆる「ホーム」にあたるスペースがグラグラ浮足立っている。この本棚の教科書は今月中にパッキングしなければならない。こちらのラックは3か月以内に処分する必要がある。この機会にPCも1台買い足すべきなのだろうが新たなタスクを差し込むのが怖くもある。メール。メールアドレス。連絡。連絡先の更新。出張医。当番の組み換え。カンファレンス。早回しのCPC。勉強会。研修医指導の引き継ぎ。研究。学会準備の持ち越し。家。すみかの掃除。

どことなく落ち着かない日に本を読んで、文字が結膜で滑ってしまってうまく読めなくて、そのせいか、最近はアニメを見ている。ストーリーが頭に入ってこなくても、視聴後にSNSでミームの答え合わせができればそれで一定の満足が得られる、便利だ。残念だったのは剣聖。めちゃくちゃ評判がいいので楽しみにしていたのだが、アニメーターの身体に関する理解が浅いためか剣を振ったときの重心がめちゃくちゃで、マンガ版の細やかな描写が一切反映されていない第一話、(もしかしたら大事なシーンではきちんと作画されているのかもな)と思わないこともなかったが、結局途中で切ってしまった。いつもならもう少しがまんして見ていたかもしれないが余力がない。楽しく見ている人には申し訳ない。

まごつく間にも研ぎ澄まされていくものはある。それは砂を敷き詰めた入れ物の中に刃物を入れてゆすったら砂のおかげで刃が研げた、くらいの雑な話なのかもしれないのだけれど、実際に各種の仕事に対する精度が高まっているように感じる。ちょうど10年前に研究会で扱った症例をふたたび提示することになって、当時のプレゼンを引っ張り出してみたら、新たに気づくことがいくつもあって、プレパラートを掘り出してきて写真から撮り直し、あらたに対比をやり直したところ、かつての解説とは雲泥の差で、なんとも複雑な気分になった。単純に私が成長したと考えてもいいのだが、「キョロキョロしすぎてあらゆるものを辺縁視した結果、これまで見えていなかったテクスチャが立ち上がってきた」という側面も無視できない。つまり10年前はこの仕事に専心したけれど、今は何に対しても「片手間」になるぶん、かえっていい仕事ができているのではないかという予感があるのだ。モナ・リザの微笑は口元をまっすぐ見るとあまり笑っているようには見えないけれど、目元や背景を見ているときに辺縁視的に口元をみると笑っているように見える、というあれ。岡目八目という言葉もある、それぞれ微妙に意味は違うのだが、大本のところでは似たようなことを言っている、すなわち、当事者性を高めすぎて、専心一如になりすぎると、かえって盲目になる、ということである。

例え話的になってしまうが、物事の観察というものは、フォーカスをぴったり合わせて注視すると過剰にアーキテクチャ重視になってしまいがちだ。肌理とか質感とか「見た目の温度感」のようなものは、むしろ雑に見ているときのほうが抽出しやすかったりもする。「いったん、目を外す」くらいの脱力をたまに入れるのが何につけてもコツなのだろう。その意味で今の私は、何事にも落ち着かないぶん、過去にないくらいに形態の総合認識能力が上がっている。

と、いうように、弁護していいほうに解釈しないとやっていられない、という事情もある。

少なくとも、どれだけ仕事の内容が向上していようとも、集中していたときのほうが、効力感はあった。「やり遂げた感」はあった。散漫になった意識のかたすみでたくさんの仕事に「済」のスタンプを押す。決済の書類をろくに見もせずに。拡散メガ粒子砲。もう少し集中したいなと思うことが近頃は増えた。でも、まあ、これまでよく、集中させてもらえたと、感謝をしなければいけないのだろう。私はもう十分に集中した。そういうおいしいポジションは、次の人たちにたくすべきだろう。雑多を散漫に扱う役割。パノプティコンの真ん中に居座るようなだめな大人にならないように、よくよく、気配りが必要ではあるだろう。