そこから1年経ったか、2年経ったか、相変わらず発音は日本人のそれで、ボキャブラリーもとんと増えていないのだけれど、なんというか、聞いてみると、テンポが変わった。リズムが変わった。先日は、日本を訪れたとあるゲストに、これ以上ないというカタコト発音ではう・どぅ・ゆ・らいく・じゃぱんと問いかけていたのだけれど、発音はともかくリズムが日本語話者のそれから少しずつ離陸しようとしている。ゲストのほうもちゃんとその英語を聞き取って良好にコミュニケーションを取っていた。「きれいな英語」ではないのだろうが確実に用をなしている。そうか、こういうことなのか。尊敬の念がふつふつと湧いてくる。
こうあればよかったのか。
彼女はこの先もどんどん、「海外の人間とコミュニケーションをとる機会」を増やしていくだろう。それは、私がこれまで、英語をやるならこうあるべきとうっすら感じていた、「自分の語りたい意味を伝達するために十全な英語力を身につける」という方向性とは、似ているようだがけっこう違うように思えた。彼女がくりかえし訓練しているのは、「自分の気持ちをうまく伝えるための英語」ではなく、「互いになにか伝わるための英語」である。伝えると伝わるの違い。もっぱら能動的になにかを成すための語学力と、中動態で場とか間が相互になにかを結果的にもたらす語学力の違い。描写が細ければそれだけ意図がたくさん込められるというものでもない。
私のコミュニケーションは偏っている。頭で単語をなぞり、頭で口の中の形をととのえて、申し訳程度の発音を出す。それらはすべて、「私がふだん日本語で考えていることを、8割とは言わないが、せめて6割程度でも伝えることができれば、相手は私の脳内風景に屈服するはずだ」という、「知ってもらえばわかるはずなのだタイプの交流」に根ざしている。でも、本当は、彼女のやっているように、互いの言葉からなにか、ミストのようなものが場に提供され、それで彼我が共にうるおっていくようなふるまいこそが、真のコミュニケーションなのだろう。語彙力がどうでもいいわけではない、文法をおろそかにしていいなんて全く思っていない、それでも、彼女が英語をもとにこれまで組み上げてきた海外の研究者たちとの交歓のかずかずは、およそ私が日本語ですら語り尽くすことのできないくらいに繚乱なニュアンスをふくよかに含んでいる。
英語に限った話ではない。思えば私は、日本語であっても、相手と交流しようというのではなく、相手にいかに自分を伝達するかという部分ばかり研ぎ澄ませてきたように思う。場を興すことなく、そこにひとり、屹立するさみしいひとつの針が、ただ内省ばかりを繰り返しながら細く鋭く尖っていく、それがなんの伝達をできるというのか、そんな私を知ったうえでそれでもこれまで私と関わろうとしてくれた幾人かの人びとは、思えば圧倒的にコミュニケーションのうまい人ばかりだったのだなあと、今更だが納得をしてしまう。