放熱の夜(1)

重慶出張の前日、目の奥が重すぎて開けていられなくなり、目薬を乱射してのけぞったまま、背もたれとしばらく癒着した。あまりに疲れていたし緊張もしていた。中国の情報が少なすぎる。観光のための本はぜんぜん売っていないしネットの話も偏っていて、YouTubeのVlogerたちの編集が浅くて見るに耐えなくて、なんだか、これほどまでに準備できないまま出張するのは久しぶりだなと思った。私は幸いなことに睡眠についてはめったに苦労しないのだけれどここ数日は眠りが浅くて、充電が70%くらいから上がっていかない昔の充電器のようだなと感じていた。


重慶への直行便は関空から出ている。しかし、ちかごろの関空は国内線のアクセスがあまり多くない。国際線の離陸よりも3時間前に空港に着いていようと思うと、土曜日にいちにち働くために木曜日に札幌を出て、関空近辺で一泊し、金曜日の直行便、みたいな話になってしまう。そんなに職場を開けたくなかった。現地のスタッフと相談すると、新千歳→北京、北京→重慶の乗り換えであれば金曜日の移動で大丈夫だと言われた。行ったことのない中国内部での乗り換え、かつて、Facebookかなにかで、先輩の医師が「中国の飛行機はがんがん遅れるし対応がまるで信用できない」みたいな話をしていたのを思い出し、不安は募るばかりだがこれしかないと思って予約を進めてもらった。


そう、交通にしても宿泊にしても、「進めてもらう」のである。自分で手続きをするわけではない。だから余計に下調べが甘くなる。現地の人が全部やってくれるからなんとかなるだろう、くらいの気持ちで数か月過ごし、いざ、出張が近づいてくると、それなりに手間も時間もかかる移動のために自分が一切汗をかいていないことが副作用のようにじんわりと痛みを訴えだす。充電器は? 変圧器は? 国際ローミングの契約は? 家を出るとき、パスポートを忘れていることに気づいてさすがにあきれたりもした。半袖スニーカーで登山口に到着してしまった気分で当日の朝を迎えた。


中国国際航空(エアチャイナ)は普通の飛行機だった。シートはやや古いし安全確認動画を流すテレビは昔の少し小さめのやつだ。しかしガタピシ感はない。CAさんとのコミュニケーションはカタコトの英語で問題ない。機内で騒ぐ客がいるわけでもない。空調がきつくもない。腕時計を持ってこなかった私は時間をスマホで見るのだが「日本時間」がいつ中国時間に変わるのだろうかということを気にした。北京に着いて電源を入れると、位置情報の取得が行われてわりとすばやく表示が切り替わって私は一時的に一時間の回復に成功する。ただし昨日申し込んでおいたドコモの国際ローミングがうまくいかない。ああ、なんだろう、空港ではドコモの電波が遮断されているのだろうか、などと不安になったが、出国ゲートに向けて電車に乗ったり歩いたりしているうちにいつのまにか回線がつながっていた。これで空港内で行く先がわからなくなっても検索ができるから一安心だ。しかし、結果的に、私は中国国内では検索をほぼしなかった。漢字を見ればだいたいの意味は掴めてしまう。出口も乗り継ぎもまあ見た通りなのだ。不思議な感覚だった。


北京で現地企業の担当者と合流する。そこで聞いてびっくりしたのだが、事前に連絡を受けていた重慶行きのフライトが、新千歳空港でチケットを受け取った時点でそもそも1時間遅延していた。時差によるアヤかと思っていたがそうではなかった。でも担当者は「最近はこういうのは珍しいです」という。たしかにこれ以降、中国国内でなにかのダイヤが乱れたということはなかった。とくに行き詰ることもなく重慶の空港についたのが23時半。車で20分も移動すれば今日の宿。ひとまず日が変わる前に到着できてよかった。こういうときに自分でタクシーに乗ったり電車に乗ったりするのがいつも気がかりで、前日などは交通に失敗する夢を見たりするものなのだけれど、今回は企業の方が車を出してくれてとても安心だ。もっとも車を出してくれることに気づいたのが前日のことだったので、前々日くらいの眠りは十分に浅かったのだが。


宿はふつうにきれいであった。そういえば中国の出張の際にはトイレットペーパーを持っていくべきだ、置いていないことがある、そしてトイレに流すと詰まるから横にあるゴミ箱に捨てるものだ、とかつて何かで読んだ話を遅ればせながら思い出した。たしかにトイレにはゴミ箱がある。なるほどやはりそうなのかと思ったが、ためしに少量の紙を流してみると日本と同じような水流でふつうに流れていく。これ以上実験するのは危険なので翌日誰かに聞いてみようと思いながらその日は就寝。4時間ほどで目覚めてシャワーを浴び直して学会会場に向かう。


朝から学会に出た。別の便で日本からやってきた平田大善先生と合流。彼は上海、北京、杭州、大連、青島、あとどこだったかな、聞いたけど忘れてしまった、とにかく都会から地方まで、中国だけでなくさまざまな海外で技術指導・講演をしまくっている内視鏡医で、私の何倍も経験があるからあとはもう彼にいろいろ教えてもらえばいい。年は私の6つくらい下であるが、皮肉でもなく本当にそのままの意味で、私とタメかもしくは私よりも上の雰囲気で接してくれるのが私にとってはすごく居心地がいい。年だけ下だからといって下手にへりくだられてしまっても面倒だし、このほうがたくさん質問して教えてもらうことができるから助かった。まず聞くのはトイレのことだ。「今回私たちが泊まっているような、外国人が観光で泊まるようなホテルではふつうに紙を流して大丈夫です。それでトラブルになったことがないです」とのことだった。もちろん農村部などでは無理なのだろうが、トイレ事情も大きく変わっている。ネットの話の半分以上が古い情報、自分で体験していない情報、いわゆるコタツ記事なのだなということをあらためて思い知った。