放熱の夜(3)

講演ならぬ講談がうまくいったのかどうかはよくわからない。金先生や、現地企業の担当者は、多くの場面で通訳をしてくださって、現地でのコミュニケーションをおおいにたすけてくださったのだけれど、出席していたドクターひとりひとりのナマの反応みたいなものを聞いて回れたわけではない。拍手の量が多いからといって聴衆が満足していたとは限らない。私の話した内容は、中国の医師にとって、簡単すぎただろうか。基礎的すぎただろうか。わざわざ海の向こうから金をかけて呼んだだけの価値があったと、感じてもらえただろうか。

朝8時からはじまった会が引けたのは18時。途中、昼飯を食いに連れ出してもらえて、重慶の町並みなどを短時間だけど見学させてもらったのはちょっとうれしかった。外気温は38度。6月だというのにもうこれかとびっくりする。ただ、日本の夏ほど湿気があるようには思えなくて、猛烈に暑いけれどまあこの程度なら……と思っていたら、来月には雨季が来て湿度が100%になるし重慶の夏は45度くらいになると聞いて、なんだこれでも夏の小手調べなのかと呆然とした。午後の症例検討は3時間、私も疲れたが、両方向の通訳を担当した金先生が一番疲れただろう。彼女は会が終わるなり北京にとんぼ返りして、明日もまた別の研究会に出るのだという。日本全土を飛び回るだけであんなに大変なのに、中国全土を飛び回る生活なんてちょっと私には想像がつかなかった。

会が終わったら晩飯だ。「重慶の重鎮医師」と書くと画数が多くてわけがわからないがとにかく当地の医療を牽引するドクターたちと飯を食う。移動する車の中でふと気づいたのだがとにかく道を走っているとパッパパッパとすぐにフラッシュのような光が焚かれる。日本でいう高速道路のNシステムのようなもので、中国人はどこにいても延々と監視カメラに覗かれていてあらゆる行動が監視されている、オーウェルの世界とはこのことか、とすぐにわかった。しかし、なんというか、今の私はそれを不気味にも不安にも思わなくなっていた。

こんな国を仮にでもひとつにまとめるのがどれだけ大変なのかということが、なんだか、身にしみていた。監視されたからなんだというのだろう、くらいの気持ちに私はなっていた。彼らのエネルギーは枠を必ず飛び越えていく。監視を前提としてなおプライベートな感情を爆発させ、規範の上に意図を盆栽のように組み上げていく中国人の底力みたいなものを、たった一日だけとは言え全身に浴びた私は、この程度の監視ならもはや彼らは痛くも痒くもないのだろう、と感じ始めていた。

晩飯を終えると昼間に見学した川沿いにもう一度行くという。行ってみると果たしてそこは盛大にライトアップされていていかにも観光地然としていたのだが、驚いたのは人、人、人、鎌倉か江の島か、まあ、日本にも、こういう名所はあるのだけれど、その人のすべて(正確には私と平田先生をのぞいた全員)が中国人であることに私は圧倒された。滅殺開墾ビームならぬ内需爆発レーザーを照射され続けて私は年甲斐もなく高揚した。すごい。すさまじい。夜の10時なのにこの老若男女。洪崖洞で私は何枚も写真や動画を撮ったのだがそのどれもピンとこなくて私はほとんどの写真をその場で捨てた。そういうことではなかった。そういう体験ではなかった。


灯りはけばくて人工的で、趣きとかわびさびといったものとは無縁で、でも、その過剰な装飾は、揚子江を埋め尽くした無垢で朴訥な欲望の人びととよく調和して全体で猛烈なメッセージになって私の脳髄に届いた。これまで日本にいながら「あの国のデザインって華美でちょっと下品だよな」みたいなことを思っていた私はきちんとわかりやすくずれていたのだなということがこの日よくわかった。

私はこの地がとても好きになった。そして、今日の講演のでき、日本でなら120点くらい付けてもよかっただろうが、中国ではおそらく満点が250点くらいに引き上げられるんじゃないかな、みたいなことを、ぎりぎり降るか降らないかというまばらな小雨の船上で、私はずっと考えた。

来年もまた呼んでもらえるだろうか。それはもうわからない。中国の医療は指数関数的に発展しており、今年力を出し切った私はおそらくすでに中国の「経験」として組み込まれ、研究され、解析されて今日にはもう過去として消化され終わっているだろう。来年、今と同じ実力の私がいても、もう彼らは私を必要としない。私は来年この国に呼ばれるためには彼らと同じペースで成長しなければいけない。それはなんというか、ずいぶんと高くて幸せな目標だなと私は思った。