TATTOOあり

げっそりドンキーである。疲労がなかなかだ。しかし、いいこともある。近頃、夜がちょうどいい。札幌。身軽な薄着でタオルケットくらいで寝て、朝方にちょっと涼しい、くらいの絶妙の気温。19度とかだ。うれしい。うっすら窓を開けておくと、寝る前に涼しい風が入ってきて、夜半にちょっと冷えて目が覚めて、掛け布団をかけてまた眠る、贅沢な睡眠。いい感じなのだ。札幌。このような季節は、いつもは7月の半ばくらいに2週間くらい、あるかないかといったところなのだけれど、今年は高気圧がイキっていて、6月中旬なのにもうこんなことになっている。全国津々浦々で、みんな暑さによってひどい目にあっているだろうし、農業も漁業もいろいろ深刻で、水不足だとかイカが捕れないとかあちこちから伝え聞くので、あまりはしゃぐのもどうかと思うけれど、冬の厳しさを考えれば札幌民はこれくらいのいい目にあっても別に悪くはないはずだ。今、とてもいい季節である。

それだけでなんとかやっていけるかなという気持ちになる。



そういう気持ちになれたのはたぶん言葉にしたからだ。

夜が気持ちいいことそのものは、言葉にしなくても普段から、私がじんわりと感じていることだ。しかし、「最近、夜が気持ちいいな」と書き留めることで、そうか、私は夜が気持ちいいと考えているんだなと、自分が置いた言葉に自分が納得させられる。このときの「感じかた」のあざやかさは、言語化する前の彩度とは比べ物にならないほど強い。

言語化しておくことで、そしてそれを自分でこうして読み返すことで、「そうだそうだ今の俺はなかなかいいんだ」と噛みしめることに、効用がある。


そして無形のものを言葉にすることはいつも近似でしかない。

湧き上がってきたものを言葉にして置いた瞬間、そうかな、ほんとうにこうかな、ちょっと小さくなってはいないか、ちょっと強調されすぎてはいないか、ちょっと輪郭の形状が異なるのではないか、ちょっと前後関係が狂ってきているのではないかと、ズレを自覚する。そのズレをみながら、言葉にする前の自分は本当はなにをどのように感じていたのかを、逆行性に探る作業に入る。とりあえずの言語化を仮の足場として、そこに登ったりそこから降りたりを繰り返しながら、もっとよい言葉がないか、もっとよい表現がないか、もっとうまい組み合わせがないか、もっとそのものずばりの順列がないかと試行錯誤をする。

そうしているうちに、感じていた事象そのものと、事象の周囲にあるもの、私が言葉にするにあたって参照したもの、連想したもの、対置したものなどが、かたまりになって私の心の中に居場所を占めるようになる。


最近、夜が気持ちいいと言葉にしたことの周囲、裏側、鏡の向こう、光をあてたときのシルエット、そういったものの中に、私が進行形でとらえようとしている世界の揺蕩い、質感みたいなものが散りばめられており、そういったものは直接みじかい言葉や文章で表すことはできないのだが、仮の足場として提示した言葉の周囲をうろうろしている間に、概念として少しずつ腑に落ちて、私はそれをまるごと手に入れることになる。



だから……というわけではないが、嫌いなもの、気に食わないもの、いやなものを言葉にする作業を最近は回避しがちだ。言葉にするとかえってそれを深く彫り込んでしまうということがある。タトゥーを見せびらかすような人。気持ちはわからなくもない。自傷行為は快感を伴う。しかし、理解はできるが共感まではできない。私は、自分の心のポリゴンにテクスチャを貼るのに忙しくて、嫌いなもののために言葉をためつすがめつするような時間を今は惜しむ。