ツーツーレロレロだ

息子からポストアポカリプスもののマンガのタイトルが無拍子で送られてきてさっそく購入、親子で互いに知らないマンガを提案しあうようになったことにまずは一安心する。かつて父は私が読んでいるマンガの大半を読んでいなかったと思う、しかし、それでも、よくあれだけいろいろ買ってくれたものだなと今になってありがたさが身にしみる。親ができることは子どもに本の背表紙を見せることなのかなという感覚は父から受け継いだものだ。


このように、現在を体験する過程では過去の断片が参照され、瞬間が拡張され、意味が輻輳していく。


過去の参照が過去との照合になってしまうときはつまらない。現在が過去の焼き直しになってしまっては息苦しい。しかし、たいていの場合、参照することで境界が破れる。現在の境界も過去の境界もどちらも破れる。解釈は固定されずに更新される。プロットなしの小説を書く際、途中で筆を止めて最初から読み返して表現をいじりながら少しずつ話を進めていくとき、あの、何度も何度も推敲されていく冒頭の文章のように、現在の筆記を進めていく過程で現在よりも過去が書き直されて研ぎ澄まされていく。こうして何かを書いているときも、誰かと話しているときも、「今・ここ」にだけ集中していることはなく、参照先の再解釈によりカロリーを消費している。

アイデンティティとは過去の解釈の総体なのかなと突然思う。「今・ここ」で私がどのように存在しているかが自我だとばかり思っていたが、たぶんそうではないのだろう。自分という小説の一行目に何を書くべきかということを、人生の続く限りで何度も推敲しつづけることが、自らをアイデンティファイするということなのではないか。


そしてだから忘却という装置があるのかなという気もする。自分の人生に対して校正ばかりをしていても新作は書けない。どこかで覚悟を決めて校了する必要がある。校了後には忘れるのだ。古い過去は順次、参照先としてのリンクを外される。それが忘却であり、ある意味、自分の人生に対する作家の役割を自分で担うにあたって、新作を書くためのコツなのかなと思う。ずっと統一の設定で書き続ける尾田栄一郎はばけものだ。ふつうは、似たような設定を、忘れたふりをして何度もこする、あだち充のような人生になっていくことが多い。


あだち充は全部は読んでいないのだがいつかどこかの夏休みを使って前作一気読みしてみたい欲望がある。それはなんというか人生の縮図みたいな体験になる気がするのだ。似て非なる過去を繰り返し想起しながら似て非なる現在を歩んでいくという過程が。