むしろ、人生とか世界を真剣に書けば書くほど、本来の人生と同じように、「設定が途中で自己矛盾する」とか「当初のポリシーがかえって足かせになる」みたいなことがたくさん出てくるものなんだろうな、つまり初期プロットの甘い創作物ってのはかえってリアルなのかもしれないな、ということを思う。
じわりとコロナが再燃してきているという話を聞く。しかし近頃はどこに出張するときもほぼマスクをしなくなった。特に飛行機は空調が上から下にばんばん抜けていくから、周りに妙に咳をする人がいるか、自分が咳をしているとき以外はマスクをしていない。満員電車ではわりとしている。気の所為かもしれないが、最近、人が少し臭くなった気がする。人が臭くなったのではなくてマスクをしていた数年の間、人の臭いを直接嗅ぐことがなくなっていたのだが、マスクを外したらなんだか気になるようになったということなのかもしれない。中でも東京と大阪は交通機関内の汗のにおいがけっこう激しく感じられる。ほかにも、外で人と会うときに相手の口臭がわずかに気になったりすることもあって、そうか、昔はこういうのを「感じ流していた」のだけれど、マスク生活を経てそういうのが流せなくなってしまっている、私はちょっと軟弱になったのだなというがっかり感はある。
私は今も職場ではマスクを外していない。それは私が病院に出入りし、お手洗いにいったりコンビニにいったりする過程で、通りすがった患者に私が無症状で感染しているコロナをうつしたら申し訳ない、みたいな職業的倫理によるものが大きい。あとはこの年齢なので肌も荒れてきているからそれを隠す意味でマスクが便利だっていうのもあるし、マスクしてるとリップクリームを塗らなくても乾燥しづらいってのもある。でもまあ惰性なのだ。病理という部門は基本的にあまり患者に会わないし、仕事に集中している間はお互いに距離をとって無言というのが原則なので、スタッフもだんだんマスクが適当になってきている。そんな中、主任部長の私が今もマスクを外さないのはもしかしたらある種の圧になってしまっているかもしれない。
導入したプロットを取り下げることに対して私は幾重かの意味でへたくそなのかなと思う。マスクにしてもそうだ。外したら外したで感性が弱っちくなっていて世界の肌理の多様性についていけなくて不快を覚えてしまうし、外さないとこではとことん外さなくてそれは一般には頑固と呼ばれる気質である。これらは、今日の話でいうならば、「いちど書いてしまったプロットを守らないことで、ストーリーが当初の予定からはずれていくこと」に対する恐怖感なのかなと思う。そういう恐怖を抱えたまま人生を執筆していくと、中盤以降に盛り上がりどころを作れず、いつまでも完結しないラノベ原作のコミカライズのようになってしまうのかもしれない。まあ完結しない作品なんていくつあっても困らないんですけどね。あっ俺だけレベルアップな件がそうだって言いたいわけじゃないよ。