いいわけを言っていいわけがない

イリタリー・ボウエル・シンドロームと書くとSF奇譚みがあってすごいのだが、要は過敏性腸症候群(IBS)である。子どものころからだからもはや40年くらいの付き合いになる、腸の気まぐれ、対処法はわりと身についていて、朝は出勤とか出張の前にいったん腸を動かしておかないと移動の最中に腸が動き出してめんどうなことになるというのを知っていてそれに備えておけばよい。「腸がいらんタイミングで動いたところで心臓が止まるわけではない」というところまであきらめてしまうとかえってリラックスして腸がぐんぐん動いてよくない、コツとしては、「さあ!これからキリキリ働くぞ!」と、しっかり交感神経系をぶち上げて腸をストップさせることが望ましい。ただしこれをやると毎朝血圧が高めに出てくるので降圧は欠かせない。あちらを立てればこちらが立たず、いったん安定に入ったアロスタシスは、インプットを微妙に調整してもなかなか別のプラトーには入ってくれなくて、複雑系を御するというのはかくもままならないものである。

出したくないタイミングで出そうになるという意味では腸よりも横隔膜のほうがやや深刻だ。ちかごろ本当にプレゼンが時間通りに終わらない。20分の講演が24分になる。残り30秒でまとめてくださいと言われると70秒しゃべってしまう。脳のなんらかの機能不全を心配するし私はこういうところが社会的にかなり劣っているなと感じる。8時半に出社すればいいのに6時には働き始めていないと落ち着かない、みたいなのも、シチュエーションは違うしもたらす効果や周囲への影響も別物ではあるが本質的には同じことなのかなと思う。世の規範であるところの絶対的な時間・時刻を軽視している点が私の大弱点で、矯正しようと思ってもなかなか治らない。「やるだけですよ。やるだけなんだから。しのごの言わずにやるんですよ」と、たくさんの人が、言わないまでも思っていると思う。そんな無言のメッセージはこちとら当事者なのでこれまでも大量に浴びまくっているのだからもうわかる。しかしだめなのだ。できない。90分以内になにかを書いてくださいと言われるようなシチュエーション(例:受験)であれば、単純に「ならば60分で書こう」とやれば65分くらいで書き上がるのだが、人様のためになにかをしゃべる60分に対しては「ならば45分で終わるような内容でいこう」とならない。ここをつまびらかにすると、「時間通りに終えることで結果的に私が低く見られることはいいのだが、時間通りに終えることで結果的に聴衆がもったいないことになるかと思うとがまんできない」のである。うーんひどい。理屈のようだが道理になっていない。時間通りのほうがたぶんいいのに。それができない。簡単なことなのに。少なめに出せばいいのに。テイクホームメッセージは1個でいいのに。AIに聞くまでもなく平成のころから言われている鉄則なのに。知っているしわかっている。筋も見えている。それでも、それをやらない。やはりなんらかの障害なのだろう。落ち込む日もある。けっこうある。

さて、ちかごろの社会がいうように、そういう自分を「許して」「それも大丈夫だよと認めて」「そういうあなたを受け入れない社会のほうがバリアなんだよと背中を押す」かというと。

ちょっとそういうのも違うんじゃないかなという気がする。これは別にほかの障害とか不全とかに対する社会の取り組みを揶揄したくて言っているわけでは全くなくて、そこはぜひご理解いただきたいのだけれど、この私がこの私の状況に対して許可を与えるのはほかとはぜんぜん違うのだ。それはまるでだめなんじゃないか。おそらく私はパニッシュメントを与えられながら苦しくうごめいていくことをわりと上げ潮気味に求めているしそれを受け入れなければダメ人間として本当にダメなところまで落ち込んでしまう。「なんで時間通りにできないんだ、だめだなあ」が社会から与えられたほうがいいのだ、そうでないと、おそらく私は仕事を続けていくうえでの交感神経と副交感神経のバランスが保てない。いや、これも違うか、そういう「いい意味での効用があるから必要悪として」だめであり続けたいというのも違う。そうでもない。そうではなくて、私はだめな人間のままそれでも仕事でなんとかぎりぎり社会とつながっているが、これだけだめなのだから仕事の中心部分がだめになったらいよいよ切られるぞという恐怖を浴びてなんぼだ、と感じている。自分がそういうものであるということをちゃんと悲しく受け止めていないとろくなことにならない。

こうなんだからこうあればいい、そのためにはこうすればいい、みたいな議論がつまんなくてしょうがない。いや、うん、つまるつまんないの問題ではないのだが、それができたら苦労しねーよというか、苦労しないで生きていられねぇよというか、しかし開き直りたいわけでもなくて、謝罪しながらできることだけやってそれに対して怒られるのはもう受け入れるしそれでもがんばるわ、みたいな話がたくさんある。そういうポンコツな実践をかくと「しっかりしている人」には本当にけっこうな頻度で怒られる。そうやって怒ってくる人が私より仕事をしていることはそこまで多くはない。しかしまれに私より仕事をしている人が私よりしっかりしていることもあって、そういうのを見ると、やはりこれは罰でしかなくて、なにかをトレードオフで得ているとか必要悪とかそういった、道理に沿ったものではぜんぜんないんだよなと肩を落とす。