FDA

薬屋のひとりごとの最新刊を読んだが人の名前がひとつもわからずまたいちから読み直さなければいけない。ワイシャツの記事が布っぽいやつで筋肉の足りなくなった私の体のやわらかいラインが出るからいつも気を張って体を硬くして歩く必要がある。薬を一日飲み忘れるとそれで二日くらい血圧が安定しない気がして不安だ。たくさんの義務が駅伝形式で走ってきて、私はいつも足がつっている。CMのサッポロビール。おとといの宴会も昨日の懇親会も焼き鳥だった。焼き鳥が好きなのだが焼き鳥を二日連続で食べるとなんだかすごく偏った気持ちになる。できれば鶏と豚は交互に。牛はいらない。

近ごろ、また昔のように、出会った人にXのアカウントを教えてもらえるようになった。すこし懐かしい。

背の低い草が一面に生えた起伏のある高原の原っぱで、思いのほかごつごつ小さくでこぼこった地面を裸足で踏みしめながら右に左にさまよっていく。そんなところで出会った動物には、必ず情が移る。そういうことなのだと思った。

今朝、夢が、完全に昨日の続きだったので、整合性がとれていて、よかった。

医者はよく印税の話をする。私に、「たくさん本を書かれていますよね、どれくらい儲かるものですか?」とたずねる人が後を絶たない。それぞれの本の部数を告げると困惑される。確定申告のことを話すと軽く怒り出す。そんなに書いているくせに、そんなにもらえないなんてことないだろう、じゃあ、世の中の多くの作家はぜんぶ兼業でなければ食っていけないではないか。そうですよ。食えませんよ。食っている作家ってのは、すごいんですよ。こんなことを話したいわけではないが、そんなことをよく話す。

搭乗を待つロビーにダルマがある。みんな白目を剥いている。




小牧からはたしか、花巻に飛ぶ飛行機があったはずだ。息子とふたりで日本縦断貧乏旅行をしたとき、まずは沖縄で2時間滞在、そこから博多に飛んで陸路で広島、京都、名古屋と移動して、いきなり飛行機で岩手に飛んだ、変な旅だった。あのとき以来の県営名古屋空港、あいかわらずさびれて猛烈に暑くて人にあふれていて、心が躍る。あのころ私たちはコンビニのおにぎりばかり食べていた、今や、離れて暮らす私たちは、どちらも自炊ばかりしている。息災でなによりである。

余地

腰痛がえぐくてヨチヨチ歩いている。ヨチヨチ歩いている自分が愛おしい。赤ちゃんがヨチヨチ歩くのは、体幹の筋肉が育ってないからなんだなということが今更わかる。解剖学は日常をよりカラフルに彩ってくれるすてきな雑学になりうる。本当は実学なのだけれど雑に扱っても味がする。


科研費をみんなでとろうねという話をした。みんな肩を落とす話題だ。でもまあ、そういうこともしていこうと思う。せっかく大学にきたのだから。この「せっかく」が私をせっかちにする。


夏にビアガーデンに行くのは義務ではないが、「せっかくだし」という感覚にはそこそこの強制性がある。より込み入ったことをいうと、「せっかくだし」という言葉はそんなに暴力的ではないんだけど、「せっかくの機会なのに……」の攻撃性はけっこう高い。否定的に用いた瞬間に威力が出る言葉というのがある。


小牧の空港をうまく使えると気持ちがよい。ホテルの朝食会場が開くより先に出てタクシーに乗る。斜めに差し込む陽光が顔を焼く。もう蝉の声がする。信号で、少女が、赤信号を待つ少女が、交差点に背中を向けていた、たぶんまぶしいからだろう。日傘も差さず、しかし彼女の短い髪はからすの色で、輪郭はGペンの筆圧であった、ナンバーガールの歌詞のようにこれから帰るのかもしれないし、単に朝番のバイトに向かう早起きな学生なのかもしれないが、彼女は一心にスマホに何かを叩き込んでいた、腰痛がえぐくてヨチヨチ泣きながら、私は知らない少女の1日の平穏を願った。そういうのもぜんぶハラスメントですと昨日の懇親会で名前を覚えられなかった教授は笑った。

ゆで差延

情と関係性で仕事をしてきた人たちに、めずらしくこちらからお願い事をしたら、私のお願いは聞き入れてくれなかった、ということがあった。魚心あっても水には心はない。まあそうか。水には心はない。お湯にはある。でもお湯だと魚はゆだってしまう。ままならない。一晩くらい悔しがってもよかったのだが、腰痛がけっこうひどくて、30分もすると腰のほうにかかりきりになって、人と人との関係の話はいったん忘れた。

腰がひどすぎてどうにもならない。筋肉をつけないと慢性的な悩みは解消しないだろう。したがって、解決策として、キン肉マンの22巻と23巻をダウンロードして読む。

「ゆで理論」という言葉があったが、このたびあらためてキン肉マンを精読して気づいたのは、マンガゆえの理論の破綻よりもむしろ、「一度描いたものを少しずつ微修正していくさま」の激しさだ。ネプチューンマンとネプチューンキングがマスク・ジ・エンドで逆回転して時間を戻す理屈に昔は大笑いしたものだが、今はべつにそういうのは気にならない。そんなことよりも、たとえば、一度リングから逃げ出そうとしたキン肉マンが、(バッファローマンのロングホーンが埋め込まれた)左腕に引っ張られてロープを自然と掴んでしまうシーンで、キン肉マンとロープとの距離がコマごとに違うこと。あるいは、アポロン・ウインドウロックのシーンで前方後円墳のサイズがコマごとにどんどん違うこと。そういうところにすごく「ゆで性」を感じる。「ゆで修正」こそがこのマンガの唯一性に寄与しているのではないか。

キン肉マンというマンガには絶対的なものさしがない。ある事象が描かれるとき、それは一コマごとに違うパース、違う輪郭、違う解釈を与えられている。戦っている超人たちがまだたどり着いていないはずの真実を実況が大声で叫んでいたりすることもある。そういった設定のソフトさや落ち着かなさで、読者が迷子になるかといったらそういうことはなく、ときおり解説役を担当するロビンマスクやブロッケンJr.や、改心するとなぜか目が宝石になったアシュラマンなどが、「それっぽくまとめて語る」。すると、ふわふわしていた設定がかなり大きめの飛躍を経て、まるで確固たる物語が最初から存在していたかのように突然ビシッと落ち着き、キン肉大王やミートくんや、あきらかにアシスタントが描いたであろうモブの観客たちが「オオオオ」と理解して納得して感動する。これこそが「ゆで時空」の本当の奇妙さで、マンガの魅力の本籍地なのだ。キン肉マンはおもしろい。「ゆで修正」はこのマンガを無二なものとして完成させている……いや、まあ、おそらく、このマンガは一生完成しないだろう、なぜなら描かれるたびに細部は変貌していくからだ。


むかし、実家にキン肉マンがとびとびであった。悪魔将軍を倒す巻と、超人タッグトーナメント編の最後の2巻、そして、フェニックスとの戦いの終盤で「ドブ川を清流に変えるフェイスフラッシュがビビンバに照射されるところ」まで描かれた巻。この4冊だけがうちにあった。今にして思うと絶妙な4冊だった。プリンス・カメハメのこともよくわかる。しかしなぜこの4冊だけがあったのか。もはやまったく覚えていないが、自分で選んで買ったわけではなかろう。父親が買ってきてくれたのかもしれないが、どうだろう。あるいは同級生からの誕生日プレゼントだったかもしれない。あのころ、小学生どうしが集まって数百円レベルのプレゼントを渡し合うような場では、マンガの最新号を送り合う習慣があった。だからうちには聖闘士星矢の途中の巻が1冊だけあった(たしか16巻とかそのあたりで、ポセイドン編の途中であり、「アッペンデックスのキキ」という名前がいじられる巻だったと思うがちゃんとは覚えていない)し、ファミコン風雲児も4巻と5巻だけがあった。ちびまる子ちゃんは3巻と6巻だけがあった(プサディ―が出てくる巻が6巻だったかと思う)。

マンガの途中の巻だけを読むというのは、とても不思議な読み心地である。親に頼んで前後の巻を買ってもらえばよいのだけれど、あの頃の私と弟はどうしてかわからないがそのような発想を持たなかった。途中の巻だけを何度も何度も読んで、かつその前後を想像するわけでもなかった。そのような体験が、私のその後の人生になにか影響を与えている可能性はある。途中で知り合い、途中で別れる関係を、あとから幾度もこするのだけれど、それでいてその関係をさらに拡張しようとはしない、電話やメールで旧交を温めることもせず、それでいてあの頃のあの人たちはどうしているのだろうと「思うことだけはやめないでいる」私の性格の、根本はマンガの途中だけ読んでいたあのころに醸成された可能性がある。

Facebookで昔の知り合いの名前を検索してみる、というのを昔ちょっとやってみたことがある。しかしそうやって検索をすると、仮に友人申請などを送らずとも、アルゴリズムが勝手に相手のタイムラインに私の名前を表示することがあると知って、私はFacebookで人を検索するのをやめた。13巻しか読まなかったマンガ、17巻しか読まなかったマンガ、31巻しか読まなかったマンガ、大人買いをすれば前後をすべて読み返すこともできるのだ、でもそれをしないでいる。いや、違うか、人生はマンガではない、Kindleでまとめ読みをするように誰かとの関係をまとめて読み返すことなどできはしない。なぜなら私は読者ではなく、もちろん作者でもなく、誰かの描いたマンガの中で毎回ちがう設定で描かれ続ける登場人物のひとりにすぎないからだ。


すごく科学的な話

人間はトポロジー的には「管」である、みたいなことをドヤァ的に語っているアカウントを定期的にみるのだけれど、さて、どうかな、もうちょっと複雑なのではないかな。

触手でもいいしミクロの探査船でもいいのだけれど、人体の表面からずっとなぞっていったとき、クチの中から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸と這っていって肛門から出ることができるので、つまり消化管の粘膜は「外表面」ということができる。ほかにも人体の中にもぐりこんだ「外表面」はいっぱいあって、それは鼻から入っていって気道を通って肺胞まで行ってもいいし、耳の穴から入っていってもよい。尿道から入っていって膀胱を辿って尿管を上行して腎盂粘膜までたどり着いて、そこから尿細管をどんどん遡っていくのもオツなものだ。

ここまではいい。ただ、じつは男女でひとつだけ違いがある。男性の場合はどの穴から入っても「腹腔」(臓器が入っているお腹の中のスペース)にたどり着く方法はない。しかし女性は別で、膣から入って子宮頚部をさかのぼって子宮内膜から両側の卵管をたどると、最終的には卵巣の手前で卵管采が腹腔内に開口するのだ。つまり、女性の場合、「お腹の中にも外から直接たどり着くことが理屈上はできる」のである。実際には途中に粘液の壁があって、ビックバイパーが泡面をばちばちに撃ちまくって突破していくかのうように粘液を突き破っていかないとそう簡単には腹腔内までたどり着けはしないのだけれど、少なくとも、「男性の腹腔は完全な閉鎖腔」だが「女性の腹腔はわずかに外と交通する手段がある」ことは事実である。つまり男性は「管の壁の中に腹腔という隠しスペースがある」のだが女性はそうではないのであった。つまり男性と女性では微妙に管の複雑さが異なるということになる。

では人体の中に完全な閉鎖腔はないのか、というと、一般にはあると考えられていて、それは血管内と髄腔内である。血管に穴が空いていたら出血して死ぬだろうからそれはそうだろう、と私も長年考えていた。でもよくよく考えると、腹腔内を循環している微弱なリンパ液が腹膜表面のリンパ管から吸収されて静脈に帰っていく経路がある。ここを使えば女性の場合は体外からがんばって血管内にアプローチすることが可能は可能だと思う。くりかえすが途中には子宮頸部の粘液があるし、卵管内だって線毛によるベルトコンベア的メカニズムが働いているので、そう簡単に腹腔にはたどり着けないけれどそういった障害をミクロの根性(?)で乗り切っていけば、膣から虚仮の一念で血管内に侵入することも夢ではないだろう。

では髄腔はどうだろう。髄液は最終的には上矢状洞付近のくも膜顆粒から吸収され、静脈に合流するはずであり、静脈を逆走すれば髄腔内にも入り込むことはできる。

女性の場合はもはや「どことも交通していない腔」というのを探すのは困難である。一方で男性の場合は、腹腔と外界との交通がどこにもないので、腹腔も、胸腔も、血管腔も、髄液腔にも外部から直接たどり着くことはできない。パイプやちくわを変形させていけば女性の体は作れるが男性の体は作れない。

男性の胸に使いもしない乳首があることをもって「人間の体は女性がベース」と考えるのはかなり有名だけれど、神様がいたとして、その神様はきっとチクワ的なものからまずは女性を先に作った。それを神的にいじりまくっているうちに、一部の穴とか精神とかがふさがって、いっけねと思っていろいろ抑えたり引っ張ったりしているうちになんとか男性ができた。ただまあ言ってみれば男性はアレンジ版というか2P色というか、二次創作というか公式同人なので、いろいろと不具合があって、女性より長生きできないし、いくつになっても基本的にバカである。

おかか

日中どんな感じで働いてますか、と聞かれて、即座に「トイレをがまんしながらですね」と答えたら救急医っぽくていいかなと思ったけれど、今の私の年齢と立場でそれをやるとパワハラでもモラハラでもセクハラでもイチハラでもありえるのでやらないほうがいいと判断。尿管結石になりますよとか訳知り顔でつっこまれても腹が立つ。でもこういう話題のときに「すぐ下ネタに流れるんだから~」みたいなことを言う人間の、「下ネタ」という概念の粒度が粗すぎることにはうっすら嫌気がわいてくる。嫌気が差すタイプの菌を嫌気性菌といいます。働いている間ずっと集中していて、その集中をとぎれさせるのが基本的には尿意もしくは便意なので、ふりかえってみると一日の中で記憶に残っているシーンがトイレをがまんしている部分なんですよね。☆細かく説明すればしただけむなしくなる話というのも世の中にはあると知った―――。もうちょっとちゃんと答えてくださいよ、ていうか、それで病理医としての矜持が伝わりますか? いや伝えなくていいだろそんなもの。しかしこういう仕事をしていると、たまに「病理医としての矜持をお教えください」みたいな依頼がくることもある。まあ、そうだな、他人を物語ろうとしたら、「プライドで化粧したペルソナ」という視点で話題を組んでいくというのも、ときには必要なのだろう。


優秀な人というのは世の中にはたくさんいる。とても優秀でちやほやされているタイプの人が、学会や研究会が終わったあとの懇親会で、列席者からあまりにほめられすぎて、かえって居心地が悪くなってしまったのだろうか、急に横にいた私に話をふって、「や、でも、私はこの市原先生ほど上手にしゃべれませんし」という流れの謙遜をすることがある。その瞬間、たしかにこの人はしゃべりでやらかしているなあと、妙に納得するし、申し訳ないがなんだその程度の思考の深度で人のほめられに晒されていたのかとがっかりもするし可哀想にも思う。思考や業績は一流だけど人前でのふるまいはまだまだ、というよそ行きの自意識のねっこには、自己評価が周囲との評価と釣り合わなかった時期に、「俺の脳がすべて表現できればお前らはみんな俺を尊敬するはずなのに」と、かつて自室で煩悶を爆発させていた時代の、ほつれてくたびれた部屋着の自意識が顔を出している。ちょっと人からちやほやされた程度で存在の属性にかかわる脆弱性を簡単に露出してしまっていて、中学の学校指定ジャージ並みに防御に不向きだ。膝のところはテカっておりシルエットはやぼったく、チャックは硬くて布が妙に分厚く洗って干しても乾燥に時間がかかる。ふと思い出したが「ぬののふく」はぼうぐではないけれど「かわのよろい」はなかなかのぼうぐだなと思う。剣道なんてまさに「かわのよろい」で身を守る武道だからな。


どうやったらそんなにポンポンしゃべれるんですか、と聞かれて、こんな半分揶揄みたいな質問をする失礼な人に真顔で向き合ってもしょうがないんだけど、どんな人にも嫌われるとめんどくさいしどこから刃物が飛んでくるかわかったものでもないので真剣に考える。口から飛び出す言葉というのはカツブシをカンナで削ったときにふわふわ舞い散る断片化した削り節のようなものだ。カンナの刃を紙一枚、高さを揃えてきれいに出して、そこにカツブシの頭部の部分から一定の方向、一定の向きでリズミカルに削ってはじめてきれいな削り節ができる。このときカツブシが乾燥しすぎているとうまく削れず粉になる。もととなったカツオの大きさや価格はじつはさほど味に関係するものでもない。乾式発酵のプロセスの成否にかかわるファクターは膨大な経験知と職人のフィーリングによるところが大きく極めて複雑だ。本枯節のいいやつだとご飯に乗せるだけでもしみじみうまいが、廉価なバッグのものだからといって味が劣るというのでもない。ひとつ言えるのは、カツブシの削り節というものはそもそも、カツオがありそれを干したものがなければ、カンナだけあっても絶対にできない、そして、ご飯の前に削ってもあらかじめ削って保存しておいてもいいが、「カンナでカツブシを削る」という行為自体が、楽しい食事の時間になり得るということ。

西部で買い物はしない

ラボにおける教授とその「右腕」のはたらきかたを、むかしの商売における主人と番頭になぞらえて、しばらくここにいろいろ書きつけていたのだが、だんだんリアルすぎる話題になってしまって、消した。爪でも切って落ち着こう。「丁稚→手代の経験がない人間が番頭をやってもだめだし、ひとつの店でしか丁稚をやったことのない手代は使い物にならない」みたいなことを書いているうちにだんだん冗談にならなくなってきたのである。なぞらえればいいというものではない、例え話を使えば避けられる類の話でもない。

なにかを語るならばいちいちぼかしてばかりいないでまっすぐ書けばいい。あるがままを丁寧に描写するだけでも人は勝手にその裏側を見たいと思って回り込んだり、その奥底を知りたいと思って考え込んだりするものである。なのに私は「誰かに何かを考えてほしい」と望むときにすぐ例え話に逃げてしまう。悪い癖だ。



日ハムがソフトバンクに全く勝てない。今シーズンは特にひどいが昨シーズンもその前も、基本的にソフトバンクにだけは勝てていないよう。格ゲーでいうところのブランカはE・本田にはダイアグラム的になかなか勝てない、みたいな話で、その背景に理屈があるかというと、もちろん理屈はいろいろあるのだろうけれど、野球というスポーツを解析重視で楽しむつもりもないのでどちらかというと、ポケモンのほのおタイプはこおりタイプにはよく効くけどみずタイプにはあまり効かない、的に、それはもうそういうもので、田尻智が最初にそう決めたからそうなったという世界の理は動かしようがないとあきらめるしかない。このあきらめは北海道の人間にとってはそろそろ慢性化しつつあり、何かのきっかけで一気に爆発するというか、あるいは潮が引くように冷めていくというか、どのような物理現象が起こるかはなってみないとわからないが、とにかくソフトバンクに勝てなくてソフトバンク戦がつまらないからテレビも見なくなるという日はすぐそこまで迫っている。ソフトバンク戦のときだけ内野スタンドがガラガラになるとかエスコンの入場料が1500円引きになる(入場券に至ってはワンコイン以下になる)とかソフトバンクの契約者が北海道北広島市では0人になるといった話も結してありえないことではない。私自身、白状すると、携帯電話にかけたときに向こうからプププッと音がするとなんだソフトバンクユーザーか、なら敵だな、と感じて電話をやめてしまったことが1回ある。1回だけだがその1回で私は今なにをしているんだろうと呆然としたのでよく覚えている。嘘でもなんでもない。私たちはそれくらい、ソフトバンクという野球チームに対する恐怖と忌避が植え付けられつつあり、野球チームだけではなくそのサポーターである会社とそこの商品のユーザーにもうっすらとした嫌悪感が生まれている。「うっすらとした嫌悪感」なんてものはスイカの塩みたいなもので愛情を増強するスパイスみたいなもんだよね、と、周りの人には説明しており、話術的なもので当座の笑いをとってごまかているけれど、わりと本気でソフトバンク製品は北海道では売れなくなっているんじゃないかなという妄想が止まらないし私のような考えの人は決して少数ではないと思う。



例え話をせずに具体的な話をはじめたら妙に怖いことを書いてしまった。人間たるもの、ぼかして語ったほうが安全である。それはたとえば、24色入りのクレヨンというものを、買って数年使ってみて、その中でいちばん使わない色というのがどうしても出てくるわけだが、その色に相当するのが職場における自分の姿だとしたときに、その色を「なるべく使うようにしむける」べきか、もしくは「24色あるということに価値があるのであって、その中のクレヨンのすべてを使う必要はまったくないし、むしろすべてを使うと描きあがる絵が汚くなる」みたいな話にするべきか、みたいな話を延々とブログに書いていくということだ。それはそれで怖い。

電子のバカ

気が進まない講演のスライドをAIに作らせている。なんとなくできてしまう。もうこの時点でなにもかもいやになる。いやになるがそれでも、ならばせめて、AIをうまく使った講演をしないと出席者に申し訳ないなと思う。心の籠っていないスライド、何枚もできあがってくる、ひとつひとつ、眺める、なにもわかっていない。プロンプトに愛がないから出力されたものにも魂がない。これではだめだ。指も心も止まってしまった。まだ今日がはじまってもいないのにもう今日一日を走り抜けたような疲れ、体中が、缶詰をまとめ買いしたときのビニール袋のように、重力によって下側にびろびろと引っ張られ、むこうがわがすけてみえる。うすい。なにもかもだ。


現金をおろした。お札に対する愛着も執着も感じられない。どこか、にせがねのように見える。ペイペイ! とわめいてくれたほうが金銭というかんじ。いやな人間になったものだ。感情移入できない紙を革製の専用容器に納めるだけのこと。人差し指の先からひとつめの関節のよこのところに切り傷をつくってしまった。あ、今、私は、金によって傷ついた。今私は金によって傷ついた。下手人を幹事にわたす。本日の飲み会代金は12000円。うち自分の飲食代は6000円。


おりしも、「爆裂・がん遺伝子診療部(焼き鳥部)2026」というチラシをもらう。まだ先の話だが、出席する予定。A4の紙を4分割して作った小さなカラーのチラシ。日時、場所、料金、コース、幹事名が書かれており、はしのほうにちいさく「暑すぎて♡滅」と書かれている。温暖化で人類は滅んだ。焼き鳥2時間で7000円。やったぜ。もし私が学生だったなら、きっと7000円も払えば午前3時まで飲めたろう。ファズギターの時間まで飲めたろう。それにしては高いよな。でも、そもそも、いまどきの学生は、朝まで飲まないのかもしれない。


書評を書いてもらう。ありがたい。ほとんど販促をできていない近著、苦労してたくさんの人に温情をもらって編んだ本、10年前の私ならなにを差し置いてもSNSで宣伝ばかりしていただろう。今はなにもできていない。いや、まてよ、10年前の私こそ、SNSの使い方にもっとも慎重であったような気がしてきた。自著のありとあらゆる「効果的かつ安価な宣伝」を断ってきた。だったら、つまり、したがって、すなわち、私はずっと宣伝なんかしていないのだ。さて、書評を送ってくれる旧知の教授、ありがたい。足を向けて寝られない。まあ、この地では、北枕にならないようにすればそれは自然と誰にも足を向けて寝ていないことになる。北方領土にずっと足を向けて寝ている。失礼な話である。


AIをあきらめて電子で教科書を購入し、手書きでちまちまとトレースしながらイラストをつくる。まったくもってアナログな、牛歩のような作業に、急速に安心をする。血が通う。目が潤う。肺胞がひらく。Virchow-Robin腔のすみずみにまで気力が満ち満ちる。シナプス間隙に感激がさざなみのように伝播されていく。電子のバカ! 私は肉と血と湿度とともに、これからもやっていく。

ばんめしのもんだい

なんか痩せたな。自分のうつった写真が送られてきて思った。筋肉量が減って首まわりが弱々しくなった感じがする。筋トレでもすればいいのだろうがまったく気が進まない。せいぜい早足で動き回るくらいの抵抗をし続けることになるだろう。なにに? 人生に? 老いに? わからないがいろいろに。

先日の東北出張にはいくつか反省が残った。自分の講演はまあいつも通りだったのでそれは(どうでも)よかったのだけれど、座談会での振る舞いはあとから思い出してももう少しやりようがあったかなと感じる。ちかごろ調整役というか狂言回しみたいな仕事が多かったせいか今回も自然とそのように、「迷う症例・悩む症例」について、その回答を明確に指摘するのではなく、その悩みそのものを適切に言語化する、みたいなことをうっかりやってしまった。会場にいた私のボス格の病理医に、懇親会の席で「消化管専門の病理医ならもっとしっかりしたことを言いなさい」と叱られた。まあごもっともだ。返す言葉もなくうなだれた。「いつもの切れ味がまったくないじゃないか」。そうか、そうか、そうだな、たしかに、取り持つ役とか融和を目指す役が必要なわけじゃない、極論に振りかぶって場の一角を照らす役だって学術の場には必要なのに、なんだかお行儀のよいことをしてしまった。

会議。会議。会議ばかりしているから人と人の間の話ばかりするようになる。たまには脳の中身をそのまま出すようなことをしなければならない。不足なく、過剰あり、三界に味方なく、深海にTATTOOあり。


来週末の出張の、講演のプレゼンがまだできていない。こんな経験はこれまで一度もなかった。追い込まれている。



明日は歓迎会がある、私は会議があるので最初の30分しか出られないが、歓迎する気持ちはあるので30分だけでも出席して飯を食う。酒は飲まない。車で行けば間違って飲むこともないだろう。

3日後には夜中に車で2時間ほど移動し、そこから3日間のあいだに数百キロを移動しながら次々診断をする。

つまり今週、今日と明後日、2度しかうちで飯を食わない。



下味のついた肉を買って帰ってきた。半分をクッキングシートの上にあけて残りの半分は明後日にとっておく。

玉ねぎを一個切る。

新玉ねぎよりも古い玉ねぎのほうが保存に便利だということをこないだ知った。古く皮の張った玉ねぎを雑に一個切って肉の上にばらし、クッキングシートの四隅をもちあげてホイル包みのようにして、しばらく弱火で加熱する。

キャベツを適当に切る。きゅうりを適当に切る。ざるの中でざっと洗ってレンジで1分ちょっとあたためる。軽くほかっとなった野菜にごまドレをかけてこれで一皿。

先週の残りのねぎを短めに切って器のなかに入れて水を軽くかけてレンジで1分加熱、くたっとしたら上からとうふを切ってぶちこんで水をひたひたに張って顆粒だしを軽くふってレンジで3分加熱。そのあいだに一度フライパンのなかのシートを開いて肉をひっくり返し、今度はシートを閉じずに4分ほど弱火で炙って軽く水分をとばす。ネギと豆腐のはいった汁物があたたまったら味噌をといてこれで二皿。冷凍してあった米を解凍。洗い物をしているうちに肉、汁、サラダ、米、一気に四皿がそろい、最後に肉に大葉を切ったやつを軽くまぶして完成。

6,7分くらいで食う。15分くらいかけて食器を洗う。布ふきんで拭いてキッチンの端からどんどん並べて乾かしていく。

段取りは気持ちの支え。食うか食わざるかはどうでもいい。段取りに従って、滞りなく動くことができた自分を言祝いでいる。キッチン以外での段取りの調子がいまいちだが、ここさえ保てていれば、私はきっと大丈夫だと思う。

怒りを源泉にするということ

怒りや不満をチョイ出ししながら周りに微弱にストレスをかけ続けることで、結果的に自分の取り分を確保する。そういう暮らし方を選んでいる人というのが、全人口の20%くらいいる。そのような自分勝手な2割に、8割の人びとは振り回され、じわりと我慢を繰り返す。でも、ときにそうした「不機嫌の君」が、不快の余勢を駆って閉塞した状況を破壊・突破することもある。したがって、システムはそうした2割を追放することができないでいる。世の事情というのは得てしてそういうことなのかな、と考える。

8割の人びとのうち、半分くらいは、怒る理由があるなら怒る。ただ、日常的に怒りベースの人生運用をしているわけではないし、普段から逐一怒っている2割を見てなんだか冷めてしまっていたりもする。

残りの半分はいろいろだ。ぜんぜん怒らない人もいる。それは別に気質がのんびりしているとか穏やかだというわけでは必ずしもない。「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快」みたいな、込み入った性格の持ち主であったりする。ほかにも、誰もいないところでだけ怒る人もいる。それと似て非なる、「誰かのリアクションが届かないような環境」でのみ怒る人もいる。一番最後のパターンはSNSで可視化され、結果的に多くの人の前で怒りまくっている。

多分私はこの中の、「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快」の側に、自分を寄せていこうとしている。それがいいのか悪いのか、私にとって、誰かにとって、そういった大事な解析をなぜか保留のままにしながら、私は「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快なんだよね」という自分を作り上げようとしている。

理由はよくわからない。少なくとも私は、怒りをベースにした言動に究極的な部分でおもしろみを感じていないのだと思うが、それが「理由」かというと自信がない。



ところで、自分への怒りを創作の種にしている人について。



まあなんかつまらないことしか言わないなと思う。申し訳ないが正直そう思う。理由はその種が、「自分という神の息吹が及ぶ部分でしか育たない」からではなかろうか。

自分の中に湧き上がってきた感情を、誰かとの間にほうり出して、そこで「他の神のわがまま」に吹きさらされること。他の目を通過すること。他の声を聞き取ること。ミックス。ブレンド。土に腐葉土を敷き詰めて耕すようにすること。そうやることで、自分の中から出てきたものは、いつしか自分以外の何かに揉まれて、奔放に増殖していく。それをしていないものは、所詮は、「自分以外神ではない」と感じている人間のひとりあそびなのではないかと思う。

なんかそういうことをよく考えていたときに、『これ描いて死ね』の10巻を読んで、そうか、だから、手島先生は、最初に描いたマンガを続けることができなかったのか、と、妙に納得するなどする。あれはすばらしいマンガですよ。

差別

早朝の空港行きバスに乗るべく妻に車で送ってもらう。手を振って別れてバス乗り場に行くと目の前で一本前の始発便が発車したところで、15分後に次のバスは来るのだけれどどうせ間に合うなら始発に乗ればよかったなと思ったが次の瞬間にはうしろにごっそり人が並び始めたのでこれは考えようによっては甘寧一番乗り状態だからよかったなと朝から少し上機嫌になる。バスに乗り込んでわりと前のほうの席に座り、カバンに入れてあった本の雑誌の最新号を取り出すが、忘れていた、今日はしおりがない。バスに乗っている間だけでは読み終わらないだろうからさてどうするかな、降り際になってしおりのかわりにカバンから名刺なりタクシーチケットなりを引っ張り出して挟むと、移動中に落っことしたりして、名刺を出先で落とすのは気持ち悪いしタクシーチケットだってもったいない。ならばしおりを作ろうと思い、仕事のためにもってきた書類の一部をぴりぴりとやぶって簡易なしおりにする。結果、バスに乗った瞬間に書類を手でやぶりはじめるおそろしいおじさんとなっている。乗ってくる人たちにはなぜか若い女性が多い。そういうのを気にしている中年男性がいるという事実だけで世の多くの人は慄然として叩き始めるのかなということも思うのだが実際気にする、なぜなら、このバスが満席となったときに私のとなりに座る人がちょっとでも不快な思いをするとしたらやりきれないからで、今日こうしてバスの中に女性が多いというのはおそらく偶然ではなくて飛行機にのってどこかに若い女性がたくさん移動するようなイベントがたぶんあるのだろう、それはアイドルのライブかもしれないしお遍路めぐりのイベントかもしれないしスマホアプリの祭りかもしれない、そういうのはまったくわからないけれど今日はとにかく若い女性のための日であって私のような人間はできるだけ存在感を消して移動しなければいけない。憂鬱な気分になりつつさっそくしおりを自作していた自分のキモさを反省してあまり目立たないように暮らしていこうと心に決める。バスが動き出してからものの5分で眠気が襲ってきて空港まで一眠りする、起きると隣には案の定女性が座っていて、私が寝ている間にいびきとか歯ぎしりとか寝返りとか寝っ屁などでこの女性が私を血祭りに上げる2秒前みたいなことになっていなかったかどうかと気が気ではない。空港について乗客が次々と降りていくがその荷物はみな大きく、中にはカバンに自作のぬいぐるみなどをぶらさげている人も多くいて、やはり今日はなにがしか大きな出来事が起こっているのかも知れないなという気持ちを新たにする。空港についてもまだ女性が多い、それも20代前後くらいの若い女性ばかりで私は少しずつ気味が悪くなってくる。そういうアニメの世界に入った夢を見ているのではないかと思うがANAのアプリはエラーばかり吐き出していて確実に現実である。仙台行きの飛行機を待つ搭乗待合でもほんとうに女性ばかりでぞっとする。仙台 ライブ などで検索をしてみると、明日、仙台では手越祐也くんがライブをする予定で、まあ彼は人気があるだろう、でもバスに乗っていた女性がぶらさげていたぬいは2人分あって、それはおそらくソロのアイドルを推すために付けているものではないだろうと私は思っていたので、たぶん手越くんを見るためだけにこんなに札幌やら新千歳やらに女性が集まっているというわけではないはずなのだ。どうしてなのだろうか。答えはわからず伏線は回収されない。それは長い長い「まんが道」の連載の中でかずかずの伏線らしき出会いが描かれつつも「愛知り染めし頃に」が2014年に完結するまでほぼすべての伏線が回収されなかったことと全く同じでリアルな人生そのものだなと思った。仙台行きのAIR DOは満席ちかく、私のとなりに座ろうとした女性が離陸までの間、ずっと中腰で自分の前の席に座っている女性とべらべらしゃべっていて、その女性の身につけているカーゴパンツかもしくは持っているカバンのどちらかが妙に汗臭くて私はびっくりする。風呂キャンセル界隈もしくは洗濯キャンセル界隈なのだろうか。早く座って落ち着いてほしいなと思いつつ「こういうことを考えている中年男性」というだけで世の中は猛烈にバッシングするのだろうということを明確に恐れて私は目を閉じ、しかし、まあさっきも寝たからな、と思ってまた目をあけて、紙をびりびり破っただけのしおりを挟んだ本の雑誌をとりだして続きを読む。今度は20分くらい起きていられた。ドスンと音がして目が覚めると仙台空港である。スーツのジャケットを脱がずに外に出ると猛烈な湿気で、気温は大したことがないのだが周りを見回すとたしかに軽装の人が多くて、このまま上下ごりごりのスーツのまま移動すると私からも周囲に迷惑をかけそうな臭いがただようことになりそうだな、というところでふと気がつく。空港線の電車に向かう通路がおじさんばかりになっている。さっきまで私はほんとうに、今日は周りが女性ばかりだなと思っていたのにいつの間にかすれ違う人もおなじ方向に向かう人もみんなおじさんなのだ。汗臭いおじさん、肩周りがふけだらけのおじさん、抜けた頭髪を頬にひっつけているおじさん、妙にでかい傘をふりまわして歩いているおじさん、短パンに革靴を合わせているおじさん。私は急にすべての緊張から解き放たれた。車内に入ってもまだおじさん確変中である。臭ってもまったく納得だ、なぜならこの車両はおじさんだらけだからだ、そしてこの臭いを「不快だ」と顔に出してもなんなら声に出してもかまわない、そのことを社会は叩かないからだ。すごくラクになった。とても癒された。仙台駅行きの電車の、4人がけのボックスの奥に縮こまって座って、本の雑誌の続きを読もうとしていたところで通り過ぎたひとりのおじさんが通り過ぎた直後に床になにかがひらめいた。それは切符なのだ。このおじさんが落としたのかなと思い、席から立って切符を拾って、私から少し離れた席に座ったおじさんに「こちら落としましたか」とたずねると、彼はキョドりながらもしっかりとした声質で「いえ、私ではないですね、私はICカードで乗ったので」と答える。たしかにいまどき切符なんて買わんよなと思って「承知しました」と答え(なんでこんなに仕事口調なのかと自分で自分がおもしろかった)、切符をもったまま自席に戻り、窓際に切符を置くと、いつのまにか通路を挟んで反対側に座っていた女性二人組が、ああ、ここにはまだ女性がいたのだ、若い女性二人のうちの一人が、「それ……」といって私と目を合わさず窓際においた切符に目を伸ばすのである。そうかこの女性のだったのか、「ああ、どうぞ」と言って切符を手渡すと、女性の掌にはいまから塗ろうと思っていたのであろう日焼け止めかクリームかなにかのかたまりが、まだ伸ばされないままに収まっていて、その方の指先が私の持った切符を丁寧につまんで、なんだ、世界には男女とも同数いるんだな、と妙に納得したところで妻が階段を降りてくる音で目が覚めて、ちょっと寝坊したけど、今から準備をして仙台に向かうことになる。そしてすべて夢で見た通りのことがまったくそのまま起こったなあと感慨深く、今、私は仙台駅のカフェでやけに冷めるのが早いカフェラテを飲みながらパソコンを叩いている。

こうやってすぐ前の話題を忘れて没頭してしまうのもよくない

ちょっとやりすぎたかなと思っていることとして、出張先のデスクの引き出しに、自分のお気に入りのボールペンはともかく、爪切りや耳かきもしのばせているということがある。そのほうが快適に仕事ができるからというだけの理由だったのだけれどよく考えると当地の人びとは怖がるだろう。「なんで出張先で爪を切るの? 家で切ってこいよ」「どうして人の職場で耳掃除をするの? 家でほじってこいよ」、ごもっともである。なんかこういうところのずれみたいなもの、私がこの歳になるまで抱え込んだ気質というか欠陥だろう、まあ、これで直接ひどい目にあったことがあるかというと、あったかもしれないけれどあまり記憶にはなくて、でも、おそらくこれで嫌な思いをした人がこれまでもけっこういて、それはたぶん静かに眉をひそめたとか、そっと去っていったとか、私にフィードバックがかからない形でのリアクションがおそらくあったのではないかと思われる。

今度職場で歓迎会がある。いろいろずれこんでしまったが事務担当者ふくめてこれでようやくフルメンバーである。だからこんな季節に歓迎会をやるのだが、うっかり北海道外の大学と研究のミーティングをする予定を同じ日に入れてしまっていた。先日の広島出張の際に話をした東北の人とその場でスマホのスケジュールを見ながらここならいいですよと答えて、しかし、職場に帰ってみるとカレンダーにはしっかり「歓迎会」と書いてあったのでなんでこれをスマホに入れなかったのかなと頭をかかえた。さあここでリスケすべきか、しかし案件の重要性を考えるとこのミーティングはここでやってしまったほうがいい、したがって、歓迎会に45分だけ出て、お酒を飲まないようにしておいて、車で職場か家に戻ってそこでミーティングに出るのがよいだろうという結論に達した。よいもなにも、よくはないのだ、結論というが、それで結していいとも思わない、しかし、この綱渡りはバランスが崩れていてもエイヤッとダッシュしてさっさと渡りきってしまったほうがよいなという決断をしてしまった。決断というがほんとうに断じる感じだ、もっとまとわりつくような思考をしばらく重ねてもいい内容である、が、そこを断じて振り切ってしまう。私以外の人間がけっこう大好きな言葉に「選択」というのがあるけれど、選択というと「選ばれるほう」が主役になるが「決断」というと断って捨てられるほうにスポットライトが当たる。人生における大きな選択、みたいな言葉の使い方をする人は「何を捨てたのか」を語っているわけで、「あそこであれを切ったのが私の人生を決めたんですよね」みたいなことを鼻をふくらませながら言っている人たちを見ていると精神の暴力性が高いなとちょっと引いてしまう。選択なんてろくな行為ではないのだ。そして私は今回、歓迎会とミーティングとをダブルブッキングしてそのまま両方に出るという選択をしたのだから本当にろくな人間ではない。ブルースである(ろくでなし)。



別件に心をとられてしばらく画面から目を離しており、今あらためてこれまで書いたものを読み返すと、気づかないうちに使わなくてもいいカタカナことばをわりと使っている。最近の自分の思考は、AIの提示してきそうなうすっぺらいカタカナ仕様になっている。なにをするにもAIに話しかけるタイプの人間が「壁打ち」という言葉を使うのだけれど私はこの単語をみると、壁に手足を打ち付けられてパチンコの玉で打たれているようなシーンを思い出す。これ元ネタがあったな、なんだっけ……あの……ファミコンのソフトを題材にしたマンガばかりがたくさん載ったアンソロみたいなコミックスで……うーん……

と思って20分くらい検索してたら見つけた。


しかし問題はこれが何に載っていたのか思い出せないことだ。『ファミコンまんが大全集』シリーズにも見覚えはあるがこれではなかった気がする。Vol. 6とか8とかくらいまで出ていたようにも思うけれどタイトルが思い出せない。ツインビーとかキン肉マンとかじゃじゃ丸君とかも載っていて、オチもなにもないおもしろさのよくわからないマンガが多くて、うーん、弟にたずねてみれば何か覚えているかもしれないがこんな用件でLINEをするのもはばかられる。

アラフィフサウザンド

早朝と深夜のどちらがいいかと考えて早朝を選んだ。24時間開いているスタンドで週末の移動に向けてガソリンを入れる。毎週欠かさずガソリンを入れている。車をポートに寄せすぎた、車体にジャケットのすそをこすらないよう体を気持ち横にして移動する。交通系IC以外の使い勝手が悪い。ポイントも何もつかないのでちょっと損した気分になる。

満タンを選択して給油口のキャップを開け、ノズルを手に持ってどっしりと運び、給油口に差し込んだらしばらくカチカチと引き金を引き続けるとそのうちセルフ給油を見守っているセンターの人がわかったわかったとばかりに安全装置を解除してくれて、給油がはじまる。近すぎる車体を眺めると表面にうっすらと黄砂と花粉のブレンドされたものが、雨だれのかたちにたくさんへばりついていて、洗車というこの世で一番醜く愚かで生産性のない行為のことを思い出して憂鬱になる。気持ちよい風が吹いているが東から浅い角度で照らす朝日が革靴を焼いている。頭寒足熱だなと思う。


出勤したらまず働く前にブログでも書こうかと思った。デスクに着くと診断用のPCがついていて、昨日帰り際に電源を消し忘れたということに気づく。診断室の入口にセキュリティがなかったらこういう些細なミスもすべて問題となっただろう。ただし業務上の問題の大半は、人が生み出したルールを人がうっかり踏み越えたことによって生じるため、人を黙らせてルールを無視すれば問題ごと消えてなくなる。どこまで許し、どこまで緩くするか、この部分でだけなぜか思考を止めてバカになるタイプの秀才が世の中にはごまんといる。ごまんといる、という言葉のごまんとは五万なのだろうか。軽く調べてみたがおなじみの「諸説あり」に発散していた。

語源というものはよく諸説が出てくるものだが、これは「正解がわからない」のではなくて、「おそらく複数の要素がそれぞれ正解」なのかなと思うことがある。というか、より細かいことをいうと、「複数の解釈によってより幅広い人びとに許容された、もしくはより多くの人びとの頭にひっかかるような重層性をもった言葉・言い回しが後世に残りやすい」のかなと思う。ネットでは池上彰やチコちゃんが何かをいうたびに「ちげーよ」「適当いいやがって」のような炎上が生じるが、たぶん彼らがいうことも「納得のひとつのプラトーを形成する要素」であって、ただそれがすべてではない、だからその説明を聞くとけっこうな数の人びとが「えっそうなの? 本当くさいことを言われたけど、でも、私は違うと思ってた」のように反応する、そうやって反応する人が多い話題のほうが盛り上がる、という仕掛けなんだろうなと考えている。

ちなみに働く前にブログを書こうと思ったが、夜のうちに届いていたメールのいくつかがかなりクリティカルだったので、悩んで返事を書いているうちに朝は終わってしまった。今のこれは深夜に書いている。ガソリンを入れてからごまん年くらい時間が経った気がする。

代替可能のゆくすえ

投稿論文にくっつけたcover letterが下書きのままだった。投稿したときに精製される「おめーが編集部に出した書類を一冊にまとめるとこれだぞ! いいか! ちゃんと確認せえよ!」というPDFがあるのだけれど、そのPDFをダウンロードだけしてろくに読まずに投稿ボタンを押して、完了、よーしひと仕事したなーと思って、ああそういえばPDFもあったなと思っていちおう開いて見てみたら、冒頭のletterの部分が、Wordの校正が終わっていない状態で赤線とかが引かれまくっている。うわあやっちまった。赤入りのゲラを入稿したようなものだ。あわてて編集部にメールをするが、週末のあいだはとうとう返事がこなかった。まあそうなのだ。どこの国も土日はしっかり休んでいる。月曜日、ようやく「しょうがねーからもう一回投稿させてやんよ」というメールが届いた。メンゴメンゴと再投稿の手続きに入る。

今回の論文は小さな症例報告だが、アクセプトされる前にいろんな学会で概念を話して回った。いま、似たような論文が次々と投稿されているのではないかと思う。あんまりちんたらしていると、「大切な私のアイディア」が、つぎつぎと他人に指摘されて、新規性のないものになってしまうだろう。

まあ、でも、「大切な私のアイディア」なんて、その程度のものである。

それまで誰も気づいていなかったようなアイディア、自分だけが考えついたアイディアというのがあるとする。それはたまにあるように見えるし、実際にあることもある。でも、そのアイディアの源泉となっているのは、近々の学術集会で提供されていたセッションのムードとか、直近の学術雑誌に掲載された研究とかであったりする。すなわち「私のアイディア」の構成成分の9割以上は、世の中のたくさんの人が共有している空気感によって半ばできあがりつつある。

ジグソーパズルのピースを、角は角、へりはへり、青っぽいものは青っぽいものどうし、白っぽいところは白っぽいものどうしで集めて、広い部屋の床にざっと並べて、わかりやすい模様から順番に組んでおいて、あとは細かく目と手を動かしてパズルを完成させるだけ、というシーンに例えた場合、「私のアイディア」の「私」というのは最後の「細かく目と手を動かす」の部分に主に存在する。ジグソーパズルの元絵の製作、ピースへの分割、その仕分けまでは、その時代の専門領域の抱え持つニュアンスがすでに作り上げている。

このことはべつに、論文にだけ言えることではなくて、小説だとか、ドラマだとか、マンガだとか、音楽だとか、絵画だとか、たいていの創作物に言えることだろう。ただ、今、こうして書いてみて、論文を小説やドラマやマンガと同列に扱うべきかどうかをちょっと悩んでいる。なんか違う。でも何かどう違うかと言われると意外と難しい。読む人、見る人のために書くという点ではいっしょだし、人と同じことをやっていてもだめだというのもいっしょだ。扱うものがマニアックでもオーソドックスでもそこは構わないというのもいっしょ。アイディアのオリジナリティが必要だがメソッドのオリジナリティは必ずしも必要ない(でも、それがあってもいい)というのもいっしょだと思う。強いて違いをあげるとすれば、論文は金を払って投稿するもので、掲載されてもとくに金銭的な見返りはないところか。でもそれも根本的な違いではない気がする。彫刻あたりはそこも含めて論文とよく似ている。ああ、でも、そうか、論文はがんばれば誰にでも書けるな、そこはほかの創作物とは違う。あと、AIが手助けすると基本的によくなるというのも論文だけの特色だろう。

大切な私のアイディアがじつは既存の概念の寄せ集めで、巨人の肩の上でシュプレヒコールをがなっているだけだったとして、それで「大切な私」が毀損されるわけではない。ただ、「AIが手助けするとよくなる、大切な私」というのはなかなかハードな文字列である。

気遣いの津波

結局Switch2にゴエモンもリズム天国も入れないまま過ごしている。というかSwitch2が手元にない。だらしない日常を送っている。仕事と仕事の合間で、スマホに入ってる古いKindleの、何度も読んだマンガを順々にローテーションして、だらだら眺めているうちに次の仕事の予定がやってきてまたそっちに取り掛かる。体幹の筋肉がやせおとろえて、座っているだけでなんとなく全身がたるんで、ジャバ・ザ・ハットのようなシルエットになっている。体重は減ったのに輪郭が広がっている。全体的にエントロピーが上昇している。ヒコロヒーはエントロピーが低いほうの人類だなと最近よく思う。

AIに作らせた文章を読んでいるときのつまらなさを日常からもじわじわと感じ始めている。最適化されたアプリに囲まれて、80点満点中の80点の暮らしを達成している。100点を目指して暮らすのがよいとは思わないけれど、100点を遠くにみながら55点とか83点とか、上下に揺れながらやっている感じが楽しかった。今、そういうのがちょっと感じづらくなっている。



先日、飲み会で、ロードスターに乗っているという人がふたりいて、ああ、それはカッケーなと思った。私は自分の乗る車に興味がないが、人の乗る車についてはわりと興味があって、デザインにしてもスペックにしても語られることは楽しい。京都の町中に大雪が降った日に、ロードスターの上にどっさりと積雪したところをスマホの動画で見せてもらった。ヘッドライトをパカっと開けて雪をどける感じがチャーミングで楽しかった。ほかにもその飲み会には、RX-78みたいな名前の(違ったと思うがそこは覚えていない)レクサスに乗っているという人もいて、その日ははからずも車の話に花が咲いた。そして、そういう流れだから当然のように、私にも「何に乗ってるんですか?」と質問がくる。私が国産のよくある普通の車に乗っていますと答えると、その場の人たちはきちんと空気を読んで、「ああ、◯◯、いいじゃないですか!」とこちらを褒めてくれる。そこで、すんと気持ちが冷めた。私は、ロードスターやレクサスが「いい車」だと思っている。その観点でいうと、◯◯なんてちっともいい車じゃない。私は「自分から見ていいなと思う車」というのはしっかりあって、それはそれとして、いい車に乗りたいという気持ちがないから◯◯に乗っている。私は自分の車を「いい」から選んで乗っているのではない。「よくない」けど「これくらいでいい」と思って乗っている。自分の車を「よさ」で選んでいない。こういう場面で周りが気遣いながら「いい車ですよね」なんて言葉を選ぶとき、そのやさしさをありがたいと思う気持ちが8割だが、いや、そんなわけないじゃん、と感じる気持ちがしっかりと2割ある。あなたの車をいいと思う感性の持ち主が乗って喜ぶ車なわけないじゃん、と思う。

私は自分が乗る車については55点でいいのだ。45点でも35点でも構わない。でも、やさしさの満ちる場ではしばしば、「55点が考えようによっては80点になる理由(ワケ)」みたいなものがどこかからか湧き上がってきて、私の人生をむりやり80点に揃えようとする。湿度と粘性の高い津波のような気遣いで空間が満たされる。そのほうが傷つく人が少ないのだろう。そのほうが悲しい思いをする人が減るのだろう。世の中はいつも持続性のある方に向かって調整されていく。今のこのほうがたぶん総体としてはいいことが多いのだろう。つまらないなと思う。私は、自分の車はそっちのけで、他人のかっこいい車の話をしていたかった。

帰路

広島から羽田に向かう飛行機の機材が変更になった。国内線機材から国際線機材に変わったらしく、なら映画とか見られるのかなと思ったが、あとで実際に乗ってみたけれどべつにそういうことはなかった(提供するサービスまで変更になるわけではないのだろう)。

問題はフライトが45分遅れてしまったことである。機材の変更に伴いおそらく座席調整が必要となったのだろう。15分くらいまでならまだしも45分遅れてしまうと、羽田で旭川行の飛行機に乗り換えることができない。アプリには、私が本来乗るはずだった飛行機のスケジュールの下に、一本遅い時間のフライトが表示されている。こちらに乗れということか。しかし、二次元バーコードが出てこないので、この変更手続が自動で終了しているわけではない。「予約はアプリからは変更できません」と表示されている。カウンターでの手続が必要、とある。広島のホテルで私はしばし考えたがここでできることがほとんどない。とにかく空港に移動しなければ何もできない。

今回のチケットを、往復・乗り継ぎの早割というやつでとっているのが仇となった。予約の変更ができない。復路便のうち、広島→羽田だけを取り消して、新幹線で急いで羽田に移動すれば、本来の旭川便にぎりぎり乗れるかもしれなかった。でもアプリから予約の変更ができない。

こうなると腹をくくるしかない。旭川に戻ったあと、夕方に出勤して、夜中までかけて水曜の午後から金曜の昼までの仕事を一気に片付け、明日の朝に札幌に移動して地方会に出る予定だったがそこをいろいろ見直す。抱えている仕事は多いが急いでいる仕事はない、それはこういうトラブルがいつ生じてもいいように、常日頃からTATを早め早めに回していることの賜物なのだけれど、とはいえ、今日このあとやるべきことができなければ、それは来週の頭の私にタスクをたくさん残して次の出張に行かなければいけないということであって、正直、気が重い。気が重いけれど、腹をくくるのだ。不可抗力、自分ではどうにもできないこと、それはしょうがないとあきらめるのだ。というか、仮にこれが「自分でどうにかできること」だったとしても、なんでもかんでも自分で解決しなければいけないという義務感に首をしめられる必要も本当はないのだ。多少、ゆるんだほうがいい。ひどい目にあっているときは、腹をくくってその状況を受け入れて、あまりあれこれ思い悩まずにうまいものでも食う、それくらいでちょうどいいのだ。

PCを開いてメールに返事をする。共同研究の話、コンサルテーションの話、講習会の案内、打ち合わせのスケジュール合わせ、その中に、スタッフからさっき届いたばかりのメールが入っていて、「今週の私の仕事が少ないので、なにか見るものをくれないか」という内容のことが書いてある。そうか、優しいな、と思った。この二泊三日で私のタスクが積み上がっているのをみて気を回してくれたのだろう。仕事をしてくれることがうれしいというよりも、そうやって気を配ってくれていることがうれしいなと思う。

さてなんと返事をしたものかと少し考える。



もみじ饅頭の入った紙袋が指に食い込んで、私は少し汗ばんでいた。空港ロビーのキッズスペースから親が制御できない声で大騒ぎしてドタバタ遊び回る嬌声が響き、それがいつしか悲鳴に変わって、興奮した子どもたちが頭でもぶつけたのか大泣きして、周りの大人たちの空気が失笑半分、同情半分に変わっていくのが肌に伝わる。札幌行きの飛行機が今から飛ぶとアナウンスされ、あれ? 私もこれに乗れば帰れるんじゃないか? と気づいてカウンターに歩いていって、「すみません、遅れて乗れないと言われたんですけれどこの飛行機には乗れるんじゃないですか」と尋ねる。地上係員は、そんなことあるんだろうか、という気持ちを隠しながら対応をはじめる。しかし私は途中で気づく。札幌行きに乗ってもだめなのだ、私は今日は旭川行きに乗らなければいけないのだから。あっと声を出して係員さんを呼び止め、すみません、間違えました、私は旭川に行くんでしたと言って謝り、その場を辞する。青森行の飛行機が遅れているというアナウンスが流れる。緑色の髪の毛をした人が数十メートル先の椅子に座っている。眼の前に座る中年男性が靴を脱いだ。私はなんだか、猛烈にさみしい気分になり、しかしまあ、さみしさに気づいているときのほうが、さみしさに気づかないでいるときよりもマシなんだよな、と思った。

病理医アサイーボウルです

何周回ってそこなんだ、と思われてもしかたないのだが、最近、トマトってすばらしい野菜だなと思う。トマトを買って料理をすると、その日の晩飯がなんだかすごく厚みが出る。ほかの野菜にはない味、ほかの野菜とも合う味、両方を達成している。おまけに調理法が幅広い。切るだけでもそもそもうまいし、なにかとあえてもいいし、加熱してもいい感じだ。保存もラクである。だいたい年中手に入るのもよい。家庭菜園で作れるというのもぐっとくる。幼稚園児に「やさいの名前、言える人~?」とたずねたらしばらく後にはトマトの名前が上がるだろう、そういう、幼子にとっても知名度の高い野菜というのにはやっぱりそれだけの実力がある。

いんげんも見直した。あいつらレンチンだけで見違える。ちょっと塩を振って魚のヨコにしのばせてフライパンでいっしょに加熱するだけでも「料理」という感じだ。使い勝手がいい。トマトに比べると幼子における知名度は低いだろう、しかし、とうのいったおじさんにとっていんげんというのは実に便りになるいぶし銀だなと感じる。

ナス。ありがたい。だいこん。さすがだ。玉ねぎ。頼りになる。きのこ。すごいやつらだ。

「定番にはわけがある」というキャッチコピーを、むかしテレビで聞いたことがあるかもなと思って検索したけれど、都合のいい読み替えとハルシネーションでなんだかよくわからなかった。でも、まあ、そういうことなんだろうな、と思う。選択圧とか生存バイアスの話をたまにするけれど、現代において「有名」なものというのは、たくさん人びとに試された末にそうして残っているものなのだから、たくさんのメリットを有し、複数の場面で役に立ち、デメリット的にも許容できるものばかりである。


私自身がさほど興味を持てないでいるけれど、野菜なみに世の中にたくさんあって人びとの信用を得ているものはほかにもたくさんある。たとえば整髪料だ。私は中年男性がなぜ髪の毛にいろいろ塗ったりするのかいまいちわからないでいるのだけれど、たぶんそれも、自炊をしていなかった時期のトマトみたいなもので、自分で使ってみればその使い勝手の良さというのが次から次へと明るみに出るものなのだろう。ほかにもたとえばマッサージなんてのもある。貴重な休みの日に1時間も消費して体をもみほぐしてもらったからなんなんだという気持ちがずっとあって、なぜみんな医療におけるtime toxicityみたいな考え方をしないのかと不思議でしょうがないのだが、いざ、自分が受けてみればきっとすごくいいのだろう、だって社会にこれだけ定着しているのだから。ゴボウなんて皮を剥くのがめんどうで買う気がしないよと言った私に「皮ついたままでもうまいよ」と妻が言ったとき私はほんとうに天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたし実際皮付きのゴボウはうまくて、かつ汁物に入れてもいいしサラダに入れてもいいしでその使い勝手はとてもよくてさすが有名な野菜だなと改めてゴボウを尊敬申し上げたりしたものだ。マッサージもそれといっしょなのかなと思う。あとちょっとニュアンスは違うけれど、タバコとかパチンコのような、現代においてはそろそろ悪とみなされつつあるものについてもきっと、なんか、理屈も感情も両方にいい感じで刺さってくるものもあるんだろう、ただまあさすがに今の私がこれらに手を出そうとは思わないけれど、残っているものにはそれだけの芯の強さがある。


むりに記事をまとめる必要はないがこういう話を考えているときにたまに思うのは、「病理医ヤンデル」はトマトではなかったな、ということだ。チアシードとかキヌアとか、それくらいの存在ではあったかもしれない。しかし少なくともそれはオクラではなかったしチンゲンサイでもなく、豆腐とか海苔にはまるで叶わなかった。なんの話をしてるんだと混乱している人がいるかもしれないが知ったことではない。私は本当は、病理医ヤンデルを、アロエとかナタデココくらいには育てたかったんだよなと、あの頃を思い出して下を向く。

自分大好きっす

次々と人に会う日、まったく人に会わない日、そういうのが交互にやってくる。あるいは、ある一定の期間はずーっと人に会うんだけどまた別の期間はずーっと人に会わない、みたいなことがまま起こる。

人に会ってなにかを成し遂げるのにはたくさんの才能と努力が求められる。

一方、人に会わずになにかを成し遂げるのにもたくさんの才能と努力が求められる。

両方とも、「成し遂げるには才能と努力」だ。でも、「成し遂げ」じゃない部分、「遂げる前」の部分、すなわち過程においては、才能でも努力でもなくて心がけとかattitudeとか、あるいは運とかめぐりあわせといったものがものを言う。

才能と努力で切り開いていく、というのはじつはうそなのだ。人柄と功徳。流れとラック。そういったものが日常の時間には満ちている。そっちのほうばかり体にぶち当たってくる。

そして、最後の最後、結果だとか成功だとか数値だとか目標みたいな場所にやってきたときにぽんと顔を出して存在感を発揮するのが才能と努力である。

だから、才能と努力については、なんだよーという、ちぇっという、そういう気持ちで向かい合っている。

結果が必要な人間にとっては才能と努力が気になるだろう。

そうじゃない場合は才能も努力もわりとどうだっていい。

途中の感情を大事にするなら気にするべきは「自分が意識して・無意識にまとう雰囲気」と「偶然のいたずら」のほうなのかなと思えてならない。




妻に言われてそうだなと思ったのだけれど私はちかごろ人や場所のニオイをやたらと気にしている。飛行機で隣にすわったおじさんの汗がくさい、とか、タクシーの運転手がさっきまで吸っていたタバコがさあ、とか、そういうことをよく言っているらしく、「気になるんだねー近頃は」と言われてなるほどと思った。なぜ周りのニオイを気にするかというとそれはおそらく自分のニオイが気になっているからだ。誰かと会って話すとき、自分の汗とか口のニオイで相手がひそかに嫌がっていないかということが気になる。別に相手がにこにこ応対してくれているのだから、たとえ私がなんらかのニオイを発していてそれが相手に届いてしまっているとしても、少なくとも笑顔でやりとりしてくれている間は大丈夫……と、考えたほうが精神衛生的にはよいのだと思うけれど、どうにも割り切れない。理屈ではなく感覚の話として、もし自分がなんらかのニオイを発していたら、それによってなんらかの功徳を失うような気がしてならない。それは、人に会う期間だけでなく、人に会わずに仕事をしている間もずっと気になっている。誰にも会わずに部屋にいるだけなのだが自分からなんらかのニオイが漂っているかと思うときついし嫌だと感じる。心のありようだとか、運だとかいう以前に、ひとまず体とか口の中をしっかり清潔にしなければ、「過ごしている最中」がくすんでしまうように思う。こういう話を人にしたところ、ほぼ即座と言っていいスピードで、「自分が大好きなんだね」とリアクションされたのだけれど、そうなのだろうか。自分のことが気になってしょうがないってことでしょ、とのことなのだが、果たして、そうなのだろうか。

人前でしゃべるのが平気だってことは自分が大好きってこと。SNSで一人語りするってことは自分が大好きってこと。ブログなんて書いてるってのは自分が大好きってこと。そうなのだろうか。「自分が好き」ではなく「自分が大好き」には悪意が感じられるが、果たして、私のやっていること・気にしていることはどれもこれも、「自分が大好きだからだね」で片付けるべきことなのだろうか。それもちょっと雑な気がする。とはいえここで、「私は成功とか達成とか最終目的地ばかりを気にしているのではなく、過程において誰かと関わり、また一人で考えることを豊かにしたいのであって、そのときに必要なのは自己愛とはたぶん似て非なる自己分析であり、なんなら私は自分のことがうっすら嫌いで」などと抗弁しても、はいはい、語れるくらいには自分が大好きなんだね、と言われてあじゃぱーとなる。そうじゃないんだけどな。たぶん。

市原ハラスメント略して

羽田空港で乗り継ぎの飛行機を待つ間、ラウンジに行くと白Tにジーンズで平成の江口洋介みたいな髪型をした男が電話スペースで大声でずっとしゃべっているのだ。しかもほとんど同じ見た目が二人。二人とも電話をずっとしているのである。背丈くらいしか違わない。「飛行機で移動する合間に延々と電話をしているのがかっこいいと思っているのであろう服装」だなあと思った。この時代にそんなにネチネチ電話しないと働けない職種ってなんなんだろう。メールとかSlackとかで書けばいいのにそうしないのはどういうことなんだろうか。相手がクライアントだというならわかるが口調はタメ口、それもかなり偉そうなタメ口であきらかに指示出しである。飛行機で移動するスケジュールの最中に電話をしないと部下を動かせない程度の働き方をしているのか……とだいぶバカにして眺めていたのだけれど、まあ、他業種の実状なんて私にはわからないこともいっぱいあるだろうし、文字にすると証拠になるから基本電話、というパターンもあるかもしれない、書き言葉と話し言葉ではニュアンスがかわって仕事のアウトプットに差が出るという業務も世の中にはきっとあるだろう。だからそんな、何もしらないくせに、あまり人をコケにするものではない、それはそうなんだけれど、だって、ここ、公共のラウンジだぜ? そこでこの声量でよいと思っているタイプの男だぜ? ならきっとバカだろう。そのバカが働く仕事だって大したことはないんだ、きっと。人をおとしめるたびにチャリンチャリンと金銭が発生するような類の、どぐされディベロッパーとかアングラ投資家とか、右で売っていたものを右で無償配布していたものと拡大解釈して左で売りさばく系の悪徳業者とかだろう。さっさとラウンジから出ていってくれねえかなと思ったがなかなか電話を切らないので私が出た。共有スペースというのはどれだけ運用側が気を遣っていてもこういうリスクが発生する。静かにすべきところで静かにできない、しない人間というのは一定割合でいる。私もそういうのをすごく気にするタイプではないと思っていたけれど、結局こうしてブログに書いてしまったし、たぶん自分で思っている以上にいらいらしたのだろうな。やだな、声と顔のデカいタイプの人間。


で、そういうことを、自分もどこか違うシチュエーションで、違うペルソナで、やってしまっているかもしれないなということを常に考える。常に考えたほうがいいだろうと思う。


自分の思い通りにならないときに人前でぐんぐん不機嫌になっていく人間のことをふと思い出す。さっきのラウンジの男とはまるで違う見た目、性格、人あたり、だけど「公共」の場において我を通すという意味で同じハコにぶちこんでしまうなあ。


飛行機の時間が近づいてきた。知人LINEがきて、リュックにお守りをつけたら翌日にはなくなっていたというので、それはなんか、誰かにとられちゃったのかもしれないなと思いつつ、厄落としという言葉でこれをなぐさめてよいものかとしばし悩む。まあ、いいんだろうな、と思って「厄落としだと思えばいいよ」とLINEをした直後に、「どう思えよ」「これこれこのように思えよ」というLINEを軽々しく送ってしまう私もまたなんらかのハラスメントの基質を持っているのだろうなと思う。

しゃべるく損

研究費を次々申請したいし次の講演のプレゼンも作りたい。日常の診断ルーティンは増える一方で指導やチェックの役割も右肩上がりだ。だから私は「がんばれゴエモン大集合!」を買うことにした。令和にゴエモンばっかコスんな、とナナシノにたしなめられても構わない。ほんとうはダビスタとかスターフォックスとかもやりたいんだけどまずはゴエモン。こうやって書くとはっきりわかる。私は今、過去に生きている。

過去に生きているよなーと思う。

ちかごろまわりで見聞きする人びとの中で、過去を現在とブレンドしながら暮らすのがダントツに上手だなと思うのは燃え殻さん、より正確にいうと燃え殻さんの書き出している書籍内の燃え殻さんの人格。実際に彼がそのように暮らしているかどうかは私にはわからない。でも、あの、文章上のスタンスこそは、過去を現在と撚り合わせながら生きるやりかたのどまんなかだと思う。

それに比べると私は、ずいぶん前に通り過ぎたゴエモンに拘泥して自分を立て直そうとしながら、来週のために、来月のために、来年のためにと未来のことで頭の中を埋め尽くしている。過去と未来が肥大して、谷間に挟まれた現在が狭小化して、円錐が収束していく先の、点の部分に、うまく視界のフォーカスがあわなくてぼやんとしていて、それで私はいつもあっちを向いたりそっちを向いたり、顔をクルクル右に左に動かしていなければならなくて、DFやCFがちゃんと仕事をしていないときの負荷のかかったボランチみたいなやりかたで、おまけにたまにスペースに走り込んだりもするのでかえってバランスが悪くなってチームの失点が地味に増えていたりする。

現在を肥大させたいものだ、と思うがそれがそもそも間違いなのだ。過去や未来から瀉血して、ふくらんだむくみを解除して、それぞれの時制がひかえめに、あまり主張しすぎないようにしてやったほうが本当はいい。私はこうして、よく、間違いを間違いと認めずに、言い訳でとりつくろってかえって傷を深くして、不良肉芽と化した領域の熱感に自分の免疫の壮健さを思ってちょっと安心するなどしている。

ダメラッタ

今日は学会だ。春に続いてまたも地元の全国学会だ。余裕がある。自宅から通えるのだから。しかし余裕がない。荷物が届くのだから。ほかに指定のしようがなかった。ふるさと納税で注文した冷凍シャケの切り身が午前中にとどく。クール宅急便は日付指定の幅が狭くて、学会後に持ち越せなかった。ヤマトも佐川も午前中指定が一番鬼門で、8:59にフライング気味に届くこともあれば、12:01に三笘の1 mmのごとく届くこともある(これだとアリになってしまうが、普通にナシだからたとえがおかしいか)。講演の予行をやって過ごそうかとも思ったけれど、来月の胆膵CPCのプレゼンがまだできていないからそれをやる。10時すぎに荷物が届いて、よし! 午後のセッションに余裕をもって出かけられるな! おまけに胆膵プレゼンもできた! そしたらこのプレゼンをGoogle driveにアップロードして、関係各位にメールしてしまえば週明けの仕事がひとつ減るぞやったぜ! とここまでかなり順調だったのだが、今回のWSI(Whole slide image, バーチャルスライドのこと)の容量がでかすぎてクラウドへのアップロードに58分かかるとわかってダーとなってしまった。これではPCを持ち運べない。正確にはスマホでテザリングして画面を開いたまま持ち歩けばいけなくはないけれどちょっとそれはさすがにどうなのだろう。余裕があり、余裕がなく、しかし、余裕ができたと思ったら、その余裕をすかさず消尽してしまった。しょうがないのでこの待ち時間の間にちょっと早いが飯を食おう。私は学会のランチョンの弁当になんの魅力も感じない(冷たいし)。だから学会のときは昼は基本的に外食をする。今日は自宅から向かうのだけれどなんとなく学会だし外食でもいいかな、なんて気分になる。札幌に観光気分でやってくる学会参加者と同じように、札幌名物を食ってもいいかもしれない。おまけに、学会参加者と違って自宅にいる私には車という文明の利器がある。駅近じゃなくてもいいとなれば選択肢は無限大だ。ラーメン、スープカレー、名店はいくらでもある。ジンギスカンを昼から食ったことはない(というか夜もめったに食わない)。スープカレー食いたくなったな。スープカレーの口になった。検索をかける。どこもかしこもオープンが11:00とか11:30だ。それでは微妙に学会に間に合わない。無限大の選択肢はあっというまに無限に漸近するだけの残念カーブに収束してしまった。すき家か、松屋か、吉野家か、なか卯か、あるいはハンバーガーか。鋭く笑っていた心が鈍く落ち込んでいく。うちには焼きそば弁当がある。もうこれでいいかと思う。明るく広がっていた青空にはいつしかネズミ男色の雲がかかっている。シャケ! シャケをテーブルの上に置きっぱだ! あぶない。なんのために待ったのだ。ここでシャケをぜんぶ溶かしたら私の意識も溶けるだろう。何もかもうまくいかない気分に体も心ものんびりゆったり温泉のように浸ってこのあと私は全国学会で1時間半にわたって症例検討のオーガナイザーをやり、その直後に1時間の教育講演を行う。かわいそうに。みんな。今日の私の体調は絶好調だがメンタルはO次郎だ。

ロストエイジ

急遽中国出張が決まり、3か月後には大連に行ってくる。2度目の中国だ。講座にいる中国人スタッフを連れて行こうかとも思ったのだが今回は予定が合わないようである。大連では英語より日本語のほうが通じるというし、WeChatも含めて中国の翻訳環境は整っているので、ことばの問題はあまり心配していないのだけれど、中国の医療の発展速度が早すぎて、半年くらい見ないでいると猛烈に先に進んでいるので、専門性どまんなかの消化管病理の領域とはいえ私が通用するかどうかが一番問題であるし心配だ。通用しなかったからといって向こうに悪いことはさほどないので(というかどうでもいいと思われているだろうし)その点は国内の講演よりも気楽だ、しかし、自分が通用しない場所で働くというのは胸をサンドペーパーで磨くような痛痒を伴う。死にはしないが不良肉芽となっていく。

それはともかく直近の仕事が忙しい。画像・病理対比のプレゼンを作る。十二指腸乳頭部(7/16)、乳腺(7/25)、胆道(7/26)がまだ完成していない。うしろのふたつは1時間半の講演に仕上げる必要がある。抱えているものが多くて大変だ。ぼうっとする。しかし、若い病理専攻医たちを見ていると、今の私はこれでもずいぶんとラクになったんだよな、と思ったりもする。


病理医になるにあたってはたくさんのタスクをこなしていかなければならない。たとえば病理解剖に関する一連の仕事。解剖をするということ自体がそうとう大変な労務であり、予測できないタイミングで解剖が入るとその日の仕事の予定がぼろぼろになって数日くらいはリカバリーが必要となるが、じつはそれ自体が大変なわけではない。解剖が終わってもやることはたくさんある。解剖の際に取得した肉眼所見をただちにまとめて中間報告をする。肉眼所見をもとに臓器を切り出す。できあがってきたプレパラートをたくさん見る。追加の染色なり免疫組織化学なりをオーダーしてまた見る。追加の免疫組織化学などをオーダーしてまたも見る。その繰り返しの末に、全身の臓器に対する診断を考え、文献を検索し、臨床とのカンファレンスの準備をし、臨床医たちとの予定をすりあわせて、カンファレンスを開催する。ここまでやって「1例」、そのような病理解剖をいまは24例やらないと、病理専門医試験を受けることはできない。

この、「専門医をとるまでの立場」の間はずっとパノプティコン的な緊張を強いられており、何をしていても良くない、足りない、満ちてない、という圧が常時かかっていて本当に大変だ。病理医に限った話ではなく、医師だけに言えることでもなく、国家資格をとってからさらに専門性のために免状を追加で取らなければいけないタイプの医療従事者に、みなあてはまるものだと思う。

現在、病理専門医試験を受験するために必要な病理解剖の経験数は「24例」である。ベテランの病理医は「たった24例」という。なぜならむかしは専門医試験を受けるのに必要な数が50例だったからだ。でも、大学病院が年間に50~100くらいの解剖をしていた20年前とは条件が異なる。当時の技師の解剖に関するサポート力は絶大で、解剖にかかる時間は今の半分くらいだったし、臨床の画像診断の解像度が低かったぶん、事前に要求される事項もそこまで細かくはなかった。病理解剖数が激減し、ひとつひとつの依頼が「重く」なっている昨今はなかなかに大変で、私がかつて専門医になるために施行した50例の解剖よりも、おそらく、今年専門医を受ける医師が施行した24例のほうが、費やしている労力は大きい。

そして今の専攻医はほかにもたくさんやることがある。解剖以外にもカンファレンスがひっきりなしにあって、毎週なにかの発表やすりあわせをしていかなければならない。ルーティンの業務だって指導医ほど高速でこなしていくことはできない。学会発表のプレゼンづくりにも時間がかかる。論文だってそうだ。そして何より、20代後半から30代前半にはライフイベントが集中する。そのくせ金がないからバイト(臨床医として診療を1日やる、とかを含む)もしなければならない。私と年の近かった先輩たちの中には、寝当直ばかりしてちょっとした財産を築き上げつつ、先輩たちにいろいろとある種のおこぼれ的な便宜をもらいながらさほど苦労せずに病理専門医をとって「これで食いっぱぐれない」みたいに胸を張っていた人間がいた。けれど今の専攻医にそんな余裕はない。どんな業界にも言えることだが病理医の世界もそうだ。

かくいう私は、病理専門医の取得に関するあれこれはそこそこしっかりやったほうだと思うし、そこはなんか、向いていたというか、さほど苦労はしなかった。けれども若い頃は大学院でうまく行かない研究(それは最後まで一度もうまくいかなかった)をなんとかするべく毎日深夜まで論文を読みまくり、でもそれらははっきり言って「ただ読んでいただけ」で、なんの役にも立たなかったし、つまり私は臨床と研究の二刀流をやりたいという美学のようなものにザンブと浸かって溺死していた。あの頃の、「何と何とをこなさないと一廉の人間になれない」と感じるプレッシャーは、今の比ではなかった。過去を美化しすぎか。べつに美しくはないけれど。


今の私は単純に忙しい、昔なら信じられないくらいの量の仕事をしている。でも、これらはもしかすると「やってもやらなくてもじつは大丈夫な仕事」ばかりで、いや、もしかしなくても、すべて代替可能で私が明日とつぜん遁走したとしても一部の臨床医や病理医が一時的にブチギレるだろうがその影響は半年もすればすべて回収できる程度には私がやらなくてもいい仕事。おまけに私の今後のキャリアにも年収にも関係ない仕事。じゃあなんでやっているのかというと私の大切な大切なお気持ちのためだけにやっている。「望んで忙しくしている」案件ばかりだ。そして私も経験を重ねた、やはりスキルはアップした、だからひとつひとつの仕事自体にかかる精神的なストレスなんて昔と比べれば天使の羽(ランドセル)くらいの軽さである。あのころ、「何になれるかわからない」と慟哭しつつ、不安定なプライベートも含めていろいろ煩悶したり韜晦したりと忙しかったころ、に、比べて今は本当にラクになった。ただし体はズタボロだ。それは単純に私が年を取って、肉体的にも精神的にも体力がなくなっているからだ。まあ、ラクにはなったのだ。若い人、がんばるとそのうちラクになるぞ。体力さえ続けば。


今の私は高望みも後悔もどちらも必要ない。ただ、私の今の仕事の内容とか分量を、たとえば35歳ころの私が引き受けていれば、体力的には余裕だったろうなあということは悔しく思わなくもない。でも私が今の仕事をするのにこの20年の彷徨は必要だったのだ。だからしょうがない。それに、35歳のころ、今のように何もかも投げ捨てて仕事をしていたら、そんな人生には疑問符がいっぱいついて、トゲの先の丸まったウニもしくはクリみたいにイガイガになっていた。何度振り返ってみても、こうしかできなかった、私の場合は、そしてそんな私は今、たぶん、昔よりすごくラクをしている。しんどいのは年のせいだ。悲しい結論だがずっと望んでいたことなのかもしれない。