何周回ってそこなんだ、と思われてもしかたないのだが、最近、トマトってすばらしい野菜だなと思う。トマトを買って料理をすると、その日の晩飯がなんだかすごく厚みが出る。ほかの野菜にはない味、ほかの野菜とも合う味、両方を達成している。おまけに調理法が幅広い。切るだけでもそもそもうまいし、なにかとあえてもいいし、加熱してもいい感じだ。保存もラクである。だいたい年中手に入るのもよい。家庭菜園で作れるというのもぐっとくる。幼稚園児に「やさいの名前、言える人~?」とたずねたらしばらく後にはトマトの名前が上がるだろう、そういう、幼子にとっても知名度の高い野菜というのにはやっぱりそれだけの実力がある。
いんげんも見直した。あいつらレンチンだけで見違える。ちょっと塩を振って魚のヨコにしのばせてフライパンでいっしょに加熱するだけでも「料理」という感じだ。使い勝手がいい。トマトに比べると幼子における知名度は低いだろう、しかし、とうのいったおじさんにとっていんげんというのは実に便りになるいぶし銀だなと感じる。
ナス。ありがたい。だいこん。さすがだ。玉ねぎ。頼りになる。きのこ。すごいやつらだ。
「定番にはわけがある」というキャッチコピーを、むかしテレビで聞いたことがあるかもなと思って検索したけれど、都合のいい読み替えとハルシネーションでなんだかよくわからなかった。でも、まあ、そういうことなんだろうな、と思う。選択圧とか生存バイアスの話をたまにするけれど、現代において「有名」なものというのは、たくさん人びとに試された末にそうして残っているものなのだから、たくさんのメリットを有し、複数の場面で役に立ち、デメリット的にも許容できるものばかりである。
私自身がさほど興味を持てないでいるけれど、野菜なみに世の中にたくさんあって人びとの信用を得ているものはほかにもたくさんある。たとえば整髪料だ。私は中年男性がなぜ髪の毛にいろいろ塗ったりするのかいまいちわからないでいるのだけれど、たぶんそれも、自炊をしていなかった時期のトマトみたいなもので、自分で使ってみればその使い勝手の良さというのが次から次へと明るみに出るものなのだろう。ほかにもたとえばマッサージなんてのもある。貴重な休みの日に1時間も消費して体をもみほぐしてもらったからなんなんだという気持ちがずっとあって、なぜみんな医療におけるtime toxicityみたいな考え方をしないのかと不思議でしょうがないのだが、いざ、自分が受けてみればきっとすごくいいのだろう、だって社会にこれだけ定着しているのだから。ゴボウなんて皮を剥くのがめんどうで買う気がしないよと言った私に「皮ついたままでもうまいよ」と妻が言ったとき私はほんとうに天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたし実際皮付きのゴボウはうまくて、かつ汁物に入れてもいいしサラダに入れてもいいしでその使い勝手はとてもよくてさすが有名な野菜だなと改めてゴボウを尊敬申し上げたりしたものだ。マッサージもそれといっしょなのかなと思う。あとちょっとニュアンスは違うけれど、タバコとかパチンコのような、現代においてはそろそろ悪とみなされつつあるものについてもきっと、なんか、理屈も感情も両方にいい感じで刺さってくるものもあるんだろう、ただまあさすがに今の私がこれらに手を出そうとは思わないけれど、残っているものにはそれだけの芯の強さがある。
むりに記事をまとめる必要はないがこういう話を考えているときにたまに思うのは、「病理医ヤンデル」はトマトではなかったな、ということだ。チアシードとかキヌアとか、それくらいの存在ではあったかもしれない。しかし少なくともそれはオクラではなかったしチンゲンサイでもなく、豆腐とか海苔にはまるで叶わなかった。なんの話をしてるんだと混乱している人がいるかもしれないが知ったことではない。私は本当は、病理医ヤンデルを、アロエとかナタデココくらいには育てたかったんだよなと、あの頃を思い出して下を向く。