自分大好きっす

次々と人に会う日、まったく人に会わない日、そういうのが交互にやってくる。あるいは、ある一定の期間はずーっと人に会うんだけどまた別の期間はずーっと人に会わない、みたいなことがまま起こる。

人に会ってなにかを成し遂げるのにはたくさんの才能と努力が求められる。

一方、人に会わずになにかを成し遂げるのにもたくさんの才能と努力が求められる。

両方とも、「成し遂げるには才能と努力」だ。でも、「成し遂げ」じゃない部分、「遂げる前」の部分、すなわち過程においては、才能でも努力でもなくて心がけとかattitudeとか、あるいは運とかめぐりあわせといったものがものを言う。

才能と努力で切り開いていく、というのはじつはうそなのだ。人柄と功徳。流れとラック。そういったものが日常の時間には満ちている。そっちのほうばかり体にぶち当たってくる。

そして、最後の最後、結果だとか成功だとか数値だとか目標みたいな場所にやってきたときにぽんと顔を出して存在感を発揮するのが才能と努力である。

だから、才能と努力については、なんだよーという、ちぇっという、そういう気持ちで向かい合っている。

結果が必要な人間にとっては才能と努力が気になるだろう。

そうじゃない場合は才能も努力もわりとどうだっていい。

途中の感情を大事にするなら気にするべきは「自分が意識して・無意識にまとう雰囲気」と「偶然のいたずら」のほうなのかなと思えてならない。




妻に言われてそうだなと思ったのだけれど私はちかごろ人や場所のニオイをやたらと気にしている。飛行機で隣にすわったおじさんの汗がくさい、とか、タクシーの運転手がさっきまで吸っていたタバコがさあ、とか、そういうことをよく言っているらしく、「気になるんだねー近頃は」と言われてなるほどと思った。なぜ周りのニオイを気にするかというとそれはおそらく自分のニオイが気になっているからだ。誰かと会って話すとき、自分の汗とか口のニオイで相手がひそかに嫌がっていないかということが気になる。別に相手がにこにこ応対してくれているのだから、たとえ私がなんらかのニオイを発していてそれが相手に届いてしまっているとしても、少なくとも笑顔でやりとりしてくれている間は大丈夫……と、考えたほうが精神衛生的にはよいのだと思うけれど、どうにも割り切れない。理屈ではなく感覚の話として、もし自分がなんらかのニオイを発していたら、それによってなんらかの功徳を失うような気がしてならない。それは、人に会う期間だけでなく、人に会わずに仕事をしている間もずっと気になっている。誰にも会わずに部屋にいるだけなのだが自分からなんらかのニオイが漂っているかと思うときついし嫌だと感じる。心のありようだとか、運だとかいう以前に、ひとまず体とか口の中をしっかり清潔にしなければ、「過ごしている最中」がくすんでしまうように思う。こういう話を人にしたところ、ほぼ即座と言っていいスピードで、「自分が大好きなんだね」とリアクションされたのだけれど、そうなのだろうか。自分のことが気になってしょうがないってことでしょ、とのことなのだが、果たして、そうなのだろうか。

人前でしゃべるのが平気だってことは自分が大好きってこと。SNSで一人語りするってことは自分が大好きってこと。ブログなんて書いてるってのは自分が大好きってこと。そうなのだろうか。「自分が好き」ではなく「自分が大好き」には悪意が感じられるが、果たして、私のやっていること・気にしていることはどれもこれも、「自分が大好きだからだね」で片付けるべきことなのだろうか。それもちょっと雑な気がする。とはいえここで、「私は成功とか達成とか最終目的地ばかりを気にしているのではなく、過程において誰かと関わり、また一人で考えることを豊かにしたいのであって、そのときに必要なのは自己愛とはたぶん似て非なる自己分析であり、なんなら私は自分のことがうっすら嫌いで」などと抗弁しても、はいはい、語れるくらいには自分が大好きなんだね、と言われてあじゃぱーとなる。そうじゃないんだけどな。たぶん。