ゆで差延

情と関係性で仕事をしてきた人たちに、めずらしくこちらからお願い事をしたら、私のお願いは聞き入れてくれなかった、ということがあった。魚心あっても水には心はない。まあそうか。水には心はない。お湯にはある。でもお湯だと魚はゆだってしまう。ままならない。一晩くらい悔しがってもよかったのだが、腰痛がけっこうひどくて、30分もすると腰のほうにかかりきりになって、人と人との関係の話はいったん忘れた。

腰がひどすぎてどうにもならない。筋肉をつけないと慢性的な悩みは解消しないだろう。したがって、解決策として、キン肉マンの22巻と23巻をダウンロードして読む。

「ゆで理論」という言葉があったが、このたびあらためてキン肉マンを精読して気づいたのは、マンガゆえの理論の破綻よりもむしろ、「一度描いたものを少しずつ微修正していくさま」の激しさだ。ネプチューンマンとネプチューンキングがマスク・ジ・エンドで逆回転して時間を戻す理屈に昔は大笑いしたものだが、今はべつにそういうのは気にならない。そんなことよりも、たとえば、一度リングから逃げ出そうとしたキン肉マンが、(バッファローマンのロングホーンが埋め込まれた)左腕に引っ張られてロープを自然と掴んでしまうシーンで、キン肉マンとロープとの距離がコマごとに違うこと。あるいは、アポロン・ウインドウロックのシーンで前方後円墳のサイズがコマごとにどんどん違うこと。そういうところにすごく「ゆで性」を感じる。「ゆで修正」こそがこのマンガの唯一性に寄与しているのではないか。

キン肉マンというマンガには絶対的なものさしがない。ある事象が描かれるとき、それは一コマごとに違うパース、違う輪郭、違う解釈を与えられている。戦っている超人たちがまだたどり着いていないはずの真実を実況が大声で叫んでいたりすることもある。そういった設定のソフトさや落ち着かなさで、読者が迷子になるかといったらそういうことはなく、ときおり解説役を担当するロビンマスクやブロッケンJr.や、改心するとなぜか目が宝石になったアシュラマンなどが、「それっぽくまとめて語る」。すると、ふわふわしていた設定がかなり大きめの飛躍を経て、まるで確固たる物語が最初から存在していたかのように突然ビシッと落ち着き、キン肉大王やミートくんや、あきらかにアシスタントが描いたであろうモブの観客たちが「オオオオ」と理解して納得して感動する。これこそが「ゆで時空」の本当の奇妙さで、マンガの魅力の本籍地なのだ。キン肉マンはおもしろい。「ゆで修正」はこのマンガを無二なものとして完成させている……いや、まあ、おそらく、このマンガは一生完成しないだろう、なぜなら描かれるたびに細部は変貌していくからだ。


むかし、実家にキン肉マンがとびとびであった。悪魔将軍を倒す巻と、超人タッグトーナメント編の最後の2巻、そして、フェニックスとの戦いの終盤で「ドブ川を清流に変えるフェイスフラッシュがビビンバに照射されるところ」まで描かれた巻。この4冊だけがうちにあった。今にして思うと絶妙な4冊だった。プリンス・カメハメのこともよくわかる。しかしなぜこの4冊だけがあったのか。もはやまったく覚えていないが、自分で選んで買ったわけではなかろう。父親が買ってきてくれたのかもしれないが、どうだろう。あるいは同級生からの誕生日プレゼントだったかもしれない。あのころ、小学生どうしが集まって数百円レベルのプレゼントを渡し合うような場では、マンガの最新号を送り合う習慣があった。だからうちには聖闘士星矢の途中の巻が1冊だけあった(たしか16巻とかそのあたりで、ポセイドン編の途中であり、「アッペンデックスのキキ」という名前がいじられる巻だったと思うがちゃんとは覚えていない)し、ファミコン風雲児も4巻と5巻だけがあった。ちびまる子ちゃんは3巻と6巻だけがあった(プサディ―が出てくる巻が6巻だったかと思う)。

マンガの途中の巻だけを読むというのは、とても不思議な読み心地である。親に頼んで前後の巻を買ってもらえばよいのだけれど、あの頃の私と弟はどうしてかわからないがそのような発想を持たなかった。途中の巻だけを何度も何度も読んで、かつその前後を想像するわけでもなかった。そのような体験が、私のその後の人生になにか影響を与えている可能性はある。途中で知り合い、途中で別れる関係を、あとから幾度もこするのだけれど、それでいてその関係をさらに拡張しようとはしない、電話やメールで旧交を温めることもせず、それでいてあの頃のあの人たちはどうしているのだろうと「思うことだけはやめないでいる」私の性格の、根本はマンガの途中だけ読んでいたあのころに醸成された可能性がある。

Facebookで昔の知り合いの名前を検索してみる、というのを昔ちょっとやってみたことがある。しかしそうやって検索をすると、仮に友人申請などを送らずとも、アルゴリズムが勝手に相手のタイムラインに私の名前を表示することがあると知って、私はFacebookで人を検索するのをやめた。13巻しか読まなかったマンガ、17巻しか読まなかったマンガ、31巻しか読まなかったマンガ、大人買いをすれば前後をすべて読み返すこともできるのだ、でもそれをしないでいる。いや、違うか、人生はマンガではない、Kindleでまとめ読みをするように誰かとの関係をまとめて読み返すことなどできはしない。なぜなら私は読者ではなく、もちろん作者でもなく、誰かの描いたマンガの中で毎回ちがう設定で描かれ続ける登場人物のひとりにすぎないからだ。