怒りや不満をチョイ出ししながら周りに微弱にストレスをかけ続けることで、結果的に自分の取り分を確保する。そういう暮らし方を選んでいる人というのが、全人口の20%くらいいる。そのような自分勝手な2割に、8割の人びとは振り回され、じわりと我慢を繰り返す。でも、ときにそうした「不機嫌の君」が、不快の余勢を駆って閉塞した状況を破壊・突破することもある。したがって、システムはそうした2割を追放することができないでいる。世の事情というのは得てしてそういうことなのかな、と考える。
8割の人びとのうち、半分くらいは、怒る理由があるなら怒る。ただ、日常的に怒りベースの人生運用をしているわけではないし、普段から逐一怒っている2割を見てなんだか冷めてしまっていたりもする。
残りの半分はいろいろだ。ぜんぜん怒らない人もいる。それは別に気質がのんびりしているとか穏やかだというわけでは必ずしもない。「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快」みたいな、込み入った性格の持ち主であったりする。ほかにも、誰もいないところでだけ怒る人もいる。それと似て非なる、「誰かのリアクションが届かないような環境」でのみ怒る人もいる。一番最後のパターンはSNSで可視化され、結果的に多くの人の前で怒りまくっている。
多分私はこの中の、「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快」の側に、自分を寄せていこうとしている。それがいいのか悪いのか、私にとって、誰かにとって、そういった大事な解析をなぜか保留のままにしながら、私は「自分が怒ることで誰かが不快になるのを見るのが不快なんだよね」という自分を作り上げようとしている。
理由はよくわからない。少なくとも私は、怒りをベースにした言動に究極的な部分でおもしろみを感じていないのだと思うが、それが「理由」かというと自信がない。
ところで、自分への怒りを創作の種にしている人について。
まあなんかつまらないことしか言わないなと思う。申し訳ないが正直そう思う。理由はその種が、「自分という神の息吹が及ぶ部分でしか育たない」からではなかろうか。
自分の中に湧き上がってきた感情を、誰かとの間にほうり出して、そこで「他の神のわがまま」に吹きさらされること。他の目を通過すること。他の声を聞き取ること。ミックス。ブレンド。土に腐葉土を敷き詰めて耕すようにすること。そうやることで、自分の中から出てきたものは、いつしか自分以外の何かに揉まれて、奔放に増殖していく。それをしていないものは、所詮は、「自分以外神ではない」と感じている人間のひとりあそびなのではないかと思う。
なんかそういうことをよく考えていたときに、『これ描いて死ね』の10巻を読んで、そうか、だから、手島先生は、最初に描いたマンガを続けることができなかったのか、と、妙に納得するなどする。あれはすばらしいマンガですよ。