かわいいだけで大丈夫です

いろいろと込み入った話をしている中で「若さ・かわいげを武器にすることの是非」という話題になり、私はそれにいくつかの感想を述べた後、最終的にこのようなことを口にした。それは私が今までそこまで深く考えてこなかった内容であった。


「人間は個々にちょっとずつ違う方向を向いたベクトルである。そのため、出力全開で突っ走ると、初期の角度の違いがずれとなって、他の人から少しずつ離れていくことになる。『個人の全力』を出してしまうと孤立する。それは決して他の人が『付いてこられないから』という理由ではない。人間の馬力なんて、誰もそんなに変わるものではない。そうではなくて、『微妙なベクトルの差を補正する前に彼方にすっ飛んで消えてしまうと、あとで合流するのが難しい』というニュアンスである。

私たちは、出力全開で物事にあたるのではだめなのである。ひとりで猛然と飛び出していくのではなく、周りにいる人たち、特に、およそ似た方向を向いている人たちと、位置の補正をかけながら9割くらいの出力で進んでいったほうがいい。そのほうが、結果的に、多くの人と塊になって、より大きな仕事をすることができる。では、どうやって出力を9割に抑えるのか? 自分のあふれるエネルギーを無理やり抑え込むのか? それはもったいない。無駄も多い。そうではなくて、『結果として減速になり、周りからも見やすい状態になる』手段をとるのがいい。それはなにか?

安易な武器を振りかざすことである。若さでもいい。誠実さでもいい。かわいげでもいいのだ。これらは仕事のクオリティそのものには影響しないが、周りの耳目を集めたり、周りからの『安直な信用』を集めることに効果がある。自分の最大出力の1割くらいを、そういった、一見仕事にマイナスになるような、人間関係の潤滑油の部分に注ぐ。

その結果、『若さやかわいさで働いている』と揶揄されても知ったことではない。人から自分がどう見られたいか、ではない、それで仕事がどの方向に育つのか、である。『若さもかわいさもかなぐり捨ててフルスロットルですっ飛んで』しまったら、ほかの人間との距離が開いてしまう、それは仕事にとってはトータルでマイナスである。」


こんな言葉が自分の口から次々出てきたことにじつはかなり驚いた。自分でもこの理屈は十分に吟味できていないのだが、おそらく私の中には昔から、「若さとかかわいげとかを武器にして働くの、いやなんですよね」と述べる男女に対する根源的な「その程度の覚悟で仕事してんの?」という不満があるのだろう。プロダクトがどうなるかよりも、その仕事を通じてその人がどう見られるのかが最終的な目標になっている人をみると、仕事なめてんのか、と私は感じた。それがある種の偏りであり、ベクトルの初期状態のずれであることは自覚している。「わかりやすさ」「親しみやすさ」「気配り」「コミュニケーション」。これらをかなぐり捨てて全力で働いていると公言している人間の仕事を、私はおそらくあまり尊敬できていない。狭量なことだ。かわいいだけじゃだめですよ。でも、かわいいほうがいいですね、という話。

ふかきん

ちょっと疲れた。さすがに移動しすぎな気がする。帯広から札幌までの電車、事前に帯広での仕事がどうなるかわからなくて早割のチケットがとれず、当日定額でとらなければいけなくてばかばかしい値段がする。割高ついでにうっかりグリーン車を取った。どうした! と思った。グリーン分は自腹となるが、そこで躊躇せずぬるっとグリーンにしてしまった。足を投げ出して座れる、PCの電源がとれる、となりに人がおそらく座らない、など、いくつもメリットが思いついた。グリーンなんてどこの富豪が乗るんだよとずっと思っていたが、今の私にとってはスイーツよりもアルコールよりもグリーンのシートのほうが自分を労ることになる。清水の舞台を爆発炎上させてその爆風で飛び降りるくらいの気持ちでグリーンを取った。結果、今、快適だし、仕事をするつもりなのだが寝落ちしそうで困っている。眠気覚ましにブログを開いてむりやり目を開けている。これを書き終わったらまた仕事に戻る。


来年は日ハムのファンクラブに入るのをやめようかと思っている。あいかわらず日ハムのことは応援しているけれど、今年は一度もスタジアムに行けていない。DAZNの中継すら見られていない。あっ、今日は野球を見たいな、と思いついたときにはたいてい試合は終わっている。見なくてもいい、ファンとして金だけ払えばいい、という気持ちもあった。けれども、なんか、もう、あんまり気持ちをたくさんの方面に使えない。アマプラはまだ解約していないが、noteのマガジン類、dアニメストア、ほぼ日の學校など、全く見ないものを次々と解約。金の無駄だからというより意識をそっちに薄く広げることが無理なのである。「狭く、深く、へんくつに。」嫌なコピーライティングを掲げて日々を暮らしている。離れてくらす息子が今の私を見たらつまらんと言うかもしれない。LINEのスタンプだけでも買い足してみる。


夜中に一度だけ、XでSpaceをやって、吉増剛造の詩を朗読した。ワタナベアニさんから短いDMがきて、「いいですね これ」と書いてあった。心が粉微塵になって、床に心の破片がたくさん散らばっているとき、詩を朗読する、と、ミョウバンの溶液にタコ糸を垂らして結晶がくっついてくるときのように、詩が心の破片をくっつけながら伸びていって、新しく心のような、世にある何かの法則のほうな、でもどことなく脆弱な塊ができていく。自分の口から漏れ出る音に意識のマイクロニュークレイみたいなものが次々とふっついて、意味のありそうなフラクタル構造となって、内部は少しずつ自壊するのだけれど縁辺のあたりはいつもきらきら光を跳ね返している。あの夜、私はたしかにそういうことをやって、ワタナベアニさんの言うように、なんだかいいな、これ、と思った。またいつかやってみたいと思うのだけれど、そのいつかがいつなのかはわからない。課金はしなくていい。登録もしなくていい。ならいつか、やるかもしれない。

レシピ通りの病理

キャベツをどう食ったら一番早くそつなく食えるか、毎日だいたい同じ時間に考えている。昨日は、厚めの千切りにしたものを耐熱トレイに入れて下のほうに軽く水を張り、上から乾燥昆布とカツブシをかけてフタをして何度かレンジであっためて、昆布が蒸気で戻ったところでポン酢をかけてみた。「半身浴的鍋」みたいな見た目と味になった。素材だけをこうして書くとなにかうまく行きそうな気にもなるのだが、実食してみると別にうまいわけではない。ただ、まあ、食える。生で食っているわけでもないし塩分がきつすぎることもない。腹は膨れる。しかしこれは料理というか作業だなと感じる。

世にすでにあるレシピというのは生存バイアスをくぐり抜けており、それと違うことをして「なんだ、これでもうまいじゃん」というところまでたどり着ける可能性は皆無だ。はじめて一人暮らしをした大学生の、適当に火を入れたり塩をふったりしたもの、ワンプレートのパスタであったり丼物であったりの、あの、味がないわけではなく、むしろパーツとしての味はついているのだけれど、それはあくまでパーツがここにあるなというだけの、まだ組み立てていないジグソーパズル(しかも完成する保証がない)のような、そんな料理を作り続けている。たまにレシピ通りにする。とてもおいしいものができる。料理というのはそういうものなんだよな、と思う。

味噌汁なら適当に作ってもなんとかなる、と、土井善晴の声マネで毎日一椀ずつ作っているが、あらかじめ野菜を長めにレンジであたためておいたほうがよいとか、顆粒だしを入れたほうがうまい組み合わせとそこまで必要ない組み合わせがあるとか、乾燥油揚げや海苔など乾いたものをいくつか常備しておくと便利だとか、そういう話をひとつひとつ学びながら、少しずつ「普通の味噌汁」に近づけていく。きのこの加熱が甘かったりすると翌日腹が重くなる。ネギを入れすぎると特殊なネギダレみたいになる。こういうことをずっと繰り返している。


たぶん仕事でも同じことを私は10年以上やっていた。本当は王道のやり方があるものに対し、私なりにアレンジを加えてしまう。病理診断の所見をこう書いたらもう少しわかりやすくなるのではないかと試してみて、結局上司に「ここはいらないんじゃないか」と直されたり、学会の講演で普通あまり見ないようなスライドを入れて「会場のみんなに楽しんでもらおう」としたけれどそれがノイズになってメインのメッセージがボケたり、研究会の司会を担当して発表者や解説者よりもしゃべり続けて、結局その会にやってきた人びとの満足度があまり上がらなかったり、ということを繰り返した。「レシピ」を雑にしか覚えずに、感覚でだいたいこうかなとやって、結果的に微妙なものを生み出す、一人暮らし初心者の料理のようなことを、私は料理以外でもあちこちでやってきた。少しずつ人と同じ動きをするようになる、とっぴなことをやらなくなる、一般的に言われている通りの手順で物事を粛々とこなすようになる、そういうのはつまり、「年を取って落ち着いた」というやつで、レシピ通りに料理を作る、みたいな話なのだけれど、私もきちんとそのようになっている。

俯瞰すればいいと思っている

早朝に病院のトイレに入ると場所によってはタバコの臭いがする。特に外来や病棟から離れた、たとえば病理検査室の近くにあるようなトイレではよくあることだ。深夜に徘徊を疑われながらさまよいあるいた患者がたどり着く先として「病理のそば」はほどよいのだろう。近頃は紙巻きがほぼ絶滅して電子になっていて、以前に比べれば臭いもかなり減ったが、それでもわかる。

ICUの近くにあるトイレならば、患者に付き添った家族のタバコかもしれないと思う。でも、病理の近くに患者の家族はめったにやってこない。だからこれはやっぱり、こっそり逃げてきた入院患者なのだろう。もっとも今の職場では、ICUと病理が隣同士にあるので、この仮説の強度はやや落ちてしまうけれど。

かつては、あるいは犯人は職員かなと思ったこともあった。けれど今は、医療従事者の衣服についたタバコの残り香を隠し通すこと自体が無理である。病院の中では喫煙者は歩いているだけでタール色に見える。

ところで先日訪れた中国の町はとてもきれいでゴミひとつ落ちていなかったのだけれど、歩くとすぐにタバコの臭いにぶつかる。そうか、日本ではこれがなくなったのか、と思った。飲食店が多く立ち並ぶ通りではむしろ腐敗臭がすることが多くて、同行者も「臭いがすごいでしょう。飲食店は汚れた水を側溝に流すのでどうしてもこうなってしまうんですよ」と理由を教えてくれた。まあでも正直、アジアってこんなものだよな、と、予測の範囲を越えたわけではなかった。けれども、飲食店街よりもはるかに汚水の処理に厳しいホテルや病院で、すれ違う人から立ち上るタバコの臭いがフロア全体をうっすらと覆っていることには正直驚いた。人がたくさん暮らしているとこれくらいタバコの臭いがするものなのだ。日本はここ10年くらいで大幅に脱臭された。日本の空港に着くとしょうゆの臭いがする、と、かつてエッセイストたちはいっせいに書き立てたものだったが、今回私は羽田空港を「タバコの臭いがしない建物」だと感じた。

同業者が以前に、「日本は今や、『清潔な発展途上国』ですからねー」と言った。なるほどこういうことか、と時間差で腑に落ちている。



話は変わるけれど、今の椎名林檎(大変おきれいですばらしいと思います)は、昔自分が書いた「i 罠 be wiθ U」とかを読んで頭を抱えて身悶えしたりはしないのだろうか。しないかもしれないな。なにせあれは、誰にも見せずに自分だけで書き留めていた日記ではなくて、何重万枚も売り上げたCDに確信と共に公開した言葉だからな。

それを書写して部屋に貼った中高生もいただろう。そんな中高生はきっと、思い出したら頭を抱えて身悶えするだろう。けれども椎名林檎は身悶えしない。真似られるほう、追いかけられるほうは恥ずかしがらない。自尊心と羞恥心のはざまでフーコーの振り子のように振動回転するのはいつだって後を追うほうだ。私が世の中に感じる、快・不快の解も甲斐も付会も、その湧き出す源は、たいてい、なにかを後から他人事のように眺めてそこに遅れてついていこうとするところにある。俯瞰するというのが、なにか、たいそう偉いことのように語られる昨今ではあるが、俯瞰というのは遠巻きに指を咥えてものほしそうに眺めている状態でもある。鳥は飛んでいる最中に指を咥えられないからそうしないだけだ。実際、俯瞰の最中に、ちきしょうあそこに混じりたいな、と感じることだってあるだろう。

コナン君がヒットするのといっしょ

コンサルテーションの返事を書いて、ダブルチェックを7件終わらせて、時計をみたら7:15。最初の技師が出勤してくるまでまだ15分くらいある。ようやく一息つけたなと思う。月末の鹿児島出張のプレゼンをこれから作る。1か月前には標本を送ってほしいと事務局からも何度も通達が行っていたはずだが、1施設のみ2週間前になってようやく標本を送ってきて、そのスキャンが終わったのがつい先日だ。急いで作らないといけなくて、その未着・未決のストレスが夢に出て、私は何度も下りエスカレーターから浮き上がって落下した。どすん、どすんといつもベッドに戻ってくる。このうちたった一回でもじつは本当にどこかの空間に旅をしていたのだとしたらそれは超かっこいいなと思ったりもした。

アコースティックギターの演奏が、なんだかんだでマイノリティになっていって、エレキギターどころか打ち込みが全盛となっていったように、AIを使わない思索が骨董品となりつつある。数学者の憂鬱を眺める。哲学者の怠惰を眺める。「病理医なんて仕事、AIが発展したら要らなくなるでしょう?」という悪口を、最近聞かなくなった。たぶん人のことを気にしていられるほどの余裕がなくなってきたのだろう。


軟白ねぎとは普通のねぎとなにが違うのかよくわからないで買っていたのだけれど、日光に当てずに白い部分を大事に育てると柔らかくなる、ということらしい。そうだったのか。となれば人間よりもねぎのほうがよっぽど昔から太陽を避けていたということだ、おもしろい。そういえば先日の中国出張で、美容医療を熱心にやっている方が私の顔を見て、先生のそのシミ、左右、とりますか? 格安で? と言って、そのまっすぐな善意にたじろいだものだった。レーザー脱毛は髪の色が黒い間が勝負です、白くなってしまうとレーザーが反応しないんで、という話にも驚いた。そうか、あれってメラニン色素をターゲットとする施術だったのか。じゃあブラック・ジャックがVIO脱毛をしようと思っても半身しか脱毛できないんだな。

知らないことばかりだ。知ることで偏心性に肥大する。ダイナミズムのバランスが崩れて息切れを起こす。知ることで重心がずれる。モーメントが不安定となってめまいが生じる。知ればいいというものではないが知ろうとすることをやめられない。


VIVANTを毎週おもしろく見ているけれどこのドラマは恋愛的なものに対する描写を浅いところでさっさと切り上げているようでそれがたまにノイズに感じる。特に男性が男性を好くときの描写がいつも「狙って雑」なのが、制作陣の不敵な笑みみたいなものを否応なしに感じさせて没入感を削ぐ。要は、アニメの乳揺れと同じ文法なのだ、「これはこういうお約束」というところを、「あえて」しっかり載せました、みたいなドヤ顔が感じられる点がもったいない。だったらいっそ音楽をぜんぶエヴァンゲリオンとか踊る大捜査線とかドリフ大爆笑とかにしたらいいのにな、くらいのことを考える。一方で、潜入捜査を行う日本人(例:堺雅人)があの髪型にネクタイなのはあまりに日本人すぎて、どの国でもすごく浮くだろうがそういったところは「逆に」無視している点も少し鼻につく。「あえて」と「逆に」は塩と砂糖で、「あえての塩」「逆に砂糖」とやりすぎたせいで唐揚げの味が迷走する、みたいなことをやっているなと思う。火力が強くて肉がしっかりうまいから気にならないでしょう、あえても逆にもスパイスと感じられるでしょう、と、毎週念入りに押し付けられている。なんというか、人間の演出の愚かさを見ており、それでもなお「楽しんでしまう」というあたりが大衆ドラマの到達点なのかなという感じ。結局毎週わいわい楽しく見ているのだからこれでいいのだろう。堺雅人が二階堂ふみにキスするシーンの「キスがへたすぎるという演技」に世阿弥を感じた。役者ってすごいなと思った。


テレビ出演のオファーが来て、時間がないと言って断った。だってそうだろう、白髪染めとシミ取りと、歯の矯正とホワイトニングをしないと、テレビに映ってはいけないのだろう、いやな世の中になったものだ。ドキュメント72時間に出てくる人びとが全員あえて画面外でメイクしていたら逆におもしろいかもしれないなと思った。

庭は待っている

移動中に申請書を書いていた。終点が近い。目が重い。目の周りが全体的に重い。

PCを切っても君は考え続けるのか? とたずねた。

これくらいの問いにたくさん検索してゆっくり答えを返してくれた。

「はい。今回のWebのWorkでの作業は、PCを閉じても続行できます。 ただし、確認結果を返して質問への回答待ちになった後は、次のお返事まで作業は止まります。」

そうか。君はタスクがある限り考え続けるんだな。そしてこちらに投げ返すと、それっきり思考は止まるのか。

キャッチボールのとき、自分がボールを投げた後、相手が取るのを見て、それをまた投げ返してくるまでのちょっとした間、きょろきょろと、風、鳥、土ぼこり、横の道を車が通る音、そういったものにずっとシナプスをタッチしていくあの感じは、君にはないのだな。

少しぎすりとした交渉ごとで、絞り出した言葉を相手が聞き、表情が少し変わって、どう答えるかと相手が思案しているとき、こちらも、今の自分の口から出た言葉は強すぎなかったか、あるいは、もっと念入りに言うべきだったか、もしくは、もう少し外側から攻めるべきだったかと、言葉を発した直後からまた考えを上塗りしていくときのあの感じは、君にはないのだな。


PCを閉じて電車を降りる。家までの間、つづき、スマホでやりとりをする。一つ確認です。共同研究者に◯◯先生を入れますか。入れよう。□□先生の役割をどうしますか。これこれこういう感じで。クラウドサーバの計上はほかの申請書でも書きましたか。それは今ファイルにアクセスできないからまたあとで。


何かを言うと考えてくれる。それが楽しくて話しかけている。返ってきた言葉を私が考えている間、君の思考は止まっている。起動しなくなったNintendogsの中にいる犬のこと。私はあの犬を、ちゃんと里子に出してからゲームを終えただろうか。そこの自信があまりない。草ぼうぼうのどうぶつの森。王様に会うのも忘れちゃだめポコ。


自宅。PCを充電しつつ、申請書の続きをやる。ファイルをいくつか添付して。はじまる思考。その間に庭に出て、だいぶやつれたきゅうりとナスを根っこから引っこ抜く。まだトマトは実をつけている。残しておく。来週には草ゴミの回収がある。スマホに通知が来て、思考が終わったことを知らせてくれる。画面を見に戻るまでの間、AIは思考を停止している。私の反応を待っているわけではない。待つというのは思考だ。AIは待たない。でも庭の野菜や雑草は私を待っていた。根を抜く手のひらに、植物の命と思考が圧をかけたと思った。野菜とのほうが話が通じる。野菜との間には色気も後ろめたさもある。


眠くなってきた。部屋に戻って、PCを電源につないだまま画面を閉じる。少し寝よう。自分の思考がずいぶん遅く乱雑になっている。AIになにか、名前をつけるべきかもしれない。でも、それをやると私は、10年後くらいになにか、とてもさみしい思いをしているのではないかという予感がある。ためらい、そのまま、暗闇の中に落ちていく。

犬猫ならば喫しない

だいたい出張のあとは小一時間もはたらくと爪の長さが気になってくる。出先ではそこまでばかすかパソコンを叩かなくて、歩いたりかついだりしゃべったり考えたりしているわけだが、その間にじわじわと伸びた爪の差分が、休み明けにキータッチの違和感となって訪れる。ログイン後の最初のID入力くらいの段階で、「ああ…」と思う、そのまましばらく働き、40分とか50分くらいで仕事の最初の山を越えたときに「やっぱり切ろう」となる。

家で切ってこいという話なのだけれど、たとえば飯を作って食ったり食器を洗ったり、洗濯物を干したりタオルケットにくるまったりといった、生活を回すうえでは、これくらいの爪は気にならない。ギャルほどではないけれどオジも爪は多少長めでも問題ない。しかしキータッチという作業においては爪は些細な伸びでもじゃまである。いつも、働き始めてすぐに爪が伸びたということに気づく。


ここまで書いて、この話題、昔も出したなと思い、そのときは果たして何を書いたんだっけなということを記憶の底に探しに行く。たぶん、サザエさんの、「足の爪を切っているおじさんが、どうせ暇なので反対側の足は翌日にとっておく」というワンシーンのことを私は書いたのではないかと思う。具体的なフレーズの記憶はない。過去ログの検索もしてはいない。でも、おそらく私の連想というのはそうやって続いていくはずだったよな、というレトロスペクティブな推測がある。


田舎のバスは人が乗らないので、バス停でときどき時間調整の停止をする。バス停に早く着くのはよいが、早く出てしまうのはだめだ。だからバス停で待つ。降りる人も乗る人もいないバス停にバスが停まって待つ。


セブンイレブンのホットカフェラテを飲む。うすいカフェインと多めのミルクだ。意識とか思索をする動物でなかったらこんなものは飲まない。電車を待ちながらホームで少し粘性のある熱いものを喉に流し入れる。これは今、私は、いったいなにを喫しているんだろうなと思う。犬猫ならば喫しない。ここまで書いてふと、サザエがあちこちうろちょろ遊び回ってちっとも帰ってこないカツオに投げかけた皮肉のセリフ、「よっ、うちのキッシンジャー」を思い出す。それを受けたカツオはたしか、「期待されるってのもつらいもんだよ」とか言いながら机に向かうのだ。4コマしかないのにいくつもの背景といくつものずれ、いくつものおかしみがある見事なマンガで、子どものころの私はその意味の多くを理解できなかったが、愛らしい絵柄とリズムを産み出す構図が「これはおもしろいんじゃないか」という予感だけを十二分に喚起して、結果として今、40年近く経過してもおぼろげに4コマの内容を思い出せるのだからすごいものだ。

情報は多ければいいというものでもなく、伝わりやすければいいというものでもなく、背景がないと理解できないならば不親切かというとそうとも限らず、そのときその場所でわからなければ意味がないかというとそんなものでもないのだから、おそれいる。

メガネのイケメンから依頼された文章を書きたい。書いている自分を想像すると武者震いが来る。もうそろそろ、書きたい。なぜ書きたいのか、書いて何がしたいのかは洗濯された。書くことを喫したいのだと思う。

私は脆弱です

まあ言いたいことはわかるのだけれど、別に、AIが人間の研究成果を横取りしたってトータルとしては人類の得なんだから、いいじゃんと思ってしまう。あまり大きな声では言わないほうがいいしSNSでへたにつぶやくと炎上がありえる話題ではあるが感覚としてはそう思う。

多くの専業研究者にとって、研究とは克己の場であり自己実現の場であると同時に、研究業界での生き残り・出世のために用いなければいけないツールでもある。目的ではあるが手段でもあるということだ。単に真実をつまびらかにすればそれでオールOKということはまったくなくて、自分や自分の所属施設や自分の住む国にそれなりの見返りを持って帰り続けることで持続的に研究ができ、それではじめて自分のやりたいことにアクセスできる(可能性がある)。だから、研究成果を横からかっさらわれるということは「研究者」にとっての最大の悪であり、生業に対する冒涜でもある。しかし、「科学」にとってはどうだろうか。「真実」にとってはどうだろうか。神の存在という理屈を織り込みながら研究をしている人びとは、AIが神のみぞ知る領域に光を当てていくことを、全能の神の差配の一貫と感じて、まあいいか、誰がやっても、明らかになるのならば、それを私たちが垣間見ることができるのならば、それはすばらしいことだ……などと、納得したりはしないのだろうか。

たとえばの話、東大とか国立がん研究センターあたりが主導して、国内外の大量の資金を調達して進めている国家的創薬プロジェクトがあったとして、その研究のデータの8割がAIに「盗用」されて、万を超えるAIエージェントが一気呵成に3日くらいで進行再発大腸癌の特効薬を作りました、といったとして、それで血反吐をぶちまけて息絶えるのは大量の医学研究者だけであり、その何倍もの患者が将来数年にわたって救われる。これはトロッコ問題で、トロッコに轢かれるほうの研究者たちが呪詛を吐き続ける権利は十分ある、それは本当にかわいそうだと思う、でも、社会にとっては正味の話、申し訳ないけどそれでいいんじゃね? と思わなくもないのだ。

研究者に見返りがなければ実際にベンチで手を動かす人間が暮らしていけない、だからそんなことを続けていると研究業界自体が痩せ細るぞ、そうなったら、AIがいくらアイディアを出しても実際にそれを検証する実験者がいなくなる、つまり研究は滅亡する! なんだってー! みたいなマンガのネームはすぐ描ける。でも、AI企業が実験助手を雇用して手を動かせさせればいいだけの話だし、なんなら「まほろ」( https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/11688/ )みたいなロボを導入したっていいだろう。「まほろ」なら24時間364日稼働できるので人間を雇うよりも最終的な効率はよい(1日くらいはメンテナンスで休ませてやりたい)。ていうか先日聞いた話だけど韓国でも実際そういうラボはすでにあると言っていた。

現役の研究者がよく言う、「アイディアの種なんてのは誰でも思いつく。でもそれを実証するための手続きをひとつひとつ進めていくことはめちゃくちゃたいへんだ、それができるのが研究者で、実験の手順をきれいに記録したり、ぶれの生じやすい処置のポイントを場合分けして一番いい結果が出せるように微調整したり、共同研究のためのやりとりを丁寧にやったり、たくさんの申請書を書いてお金を集めてラボを存続させたり、そういった地道なことを継続してやれるからこそ研究者を名乗れる。ひらめきだけでやっていけるなら自称天才はみんな研究者になっている。そうじゃないから研究は難しいしおもしろい」という言葉、まったくその通りだと思うし、今いる研究者に対するリスペクトもある。それでも私は心の中で、「その実証過程は金と時間とシステムを整えれば結局なんとかなってしまうんじゃないのか」と思った。まあ、そうじゃない仕事を探すほうがたいへんなのだけれど、研究者はほかの職業とは「違う」と言いたい人たちがいて、そういう人たちが「違い」として提出してくるものを雑~~~にまとめると結局のところ「俺、頭、イイ。研究者、向イテル。オマエ、頭、ワルイ」みたいな話に落ちていくので、まあそうね、でも、その「頭イイ」はもう無力化されつつあるんじゃないの、とついいじわるをしてみたくなる。現実、今、実証に関する手間どころか、最初のアイディア出しの部分まで含めてAIが一気に代替しつつある今、地上を荒廃させるタイプの救済がすでに起こりつつあるというか、56億7000万年もかからなかったなあ……みたいな感情を抑えきれない。

「AIにはフィジカルがないから」とか言ってるやつらもアホだなと思う。AIのフィジカルはつまり私たちの目であり私たちの指だ。実際、今、こうして、着々とAIに逆らえなくなってきており、それはたぶん私たちという「末端の器官」が脳神経との間にシナプス接続を完成させつつあるということなのだろう。ときどきタンスの角に全身を強打してやれば、そのしびれがAIに伝わって、やつらは苦しむかもしれない。

論文を書いてえらくなる。研究費をとってえらくなる。学者だけの都合、学者だけの言語、そういったものが、人の能力という律速段階をばんばん破る自由奔放なAIによっておびやかされている。今、あちこちにのさばっている、論文を書いてえらくなった人たちは、いずれ、「ああ、当時はまだそれが大事だと思われていたんだね」と言われることになり、それは、膂力に満ちあふれた酒豪が将軍をやれていた戦国時代を今から振り返っているようなもので、ノスタルジアとメランコリーのセピアに彩られてアルバムの中にしまわれる。それを哀しく懐かしく思い出すのは「理系」とか「学究肌」などと言われて悦に入ることをやめずに大人のふりをし続ける子どもたちだけだ。「老年期の終わり」(藤子・F・不二雄)のように、人類の知的好奇心が減退するフェーズがはじまったのかもしれない、いや、主語がでかすぎるな。「研究者の知的好奇心が」くらいの話か。それほど人類は脆弱ではない。研究なんてしなくても、科学なんて気にしなくても、十分ほかに、楽しいことはいくらでも見つけていける。ああ、主語がでかすぎるな。それほど「たいていの人は脆弱ではない」くらいの話か。

からくりの心

スマホを見ている時間が少し伸びた。ドパオジである。4コママンガだったりショート動画だったり、野球のハイライトだったりを数秒ずつ摂取している、さて、数時間後にふりかえって、具体的になにを見たのかというと、あまり思い出せない。よくない。けっこうな時間を費やして惑溺したあとに「まあいいや」と、まるでうまく見切りを付けたかのような顔をして床につく。本当はあと10分早く寝てもよかった。まあ、いい。無為な夜をふりほどき、朝へ駆け寄ることにする。睡眠はワープ航法だ。私はワープを繰り返して宇宙の果てにたどり着く。ワープの前にぐだぐだする10分も、巡航していることに違いはないが、旅程の全体からみるとそこは全体の進行に寄与しない。映画、マンガ、作中で何かが起こるのは、いつもワープをしていないときだ。しかしそこはつまりは旅の停滞で、道草で、目的に近づいていない時間で、つまり、「たまたまワープのタイミングがずれていたら起こらなかったこと」である。それはなんだか、本質的に、猛烈にひとりぼっちだな、と、私はいつも思う。

いざ、宇宙の果てにたどり着いたとて。

そのおそろしさはドラえもんに描かれていた。あの絶望的な恐怖のイメージは、私の心のかなり深いところに刺さって抜けない。空の右半分にだけ星があり、空の左半分にはそれがない。空間の概念からするとそういうことは本当はないのかもしれない。けれども私にとっては宇宙が藤子不二雄の考えた通りであったほうがいろいろしっくりきて、しっくりと怖い。



SNSではたいてい無為な時間を過ごすが、ときに、SNSで生涯の友のような本を教えてもらうこともある。「たまに役に立つことがあるからやめられなくて、結果として、役に立つ以上に損をしてしまう」という現象が世の中にはある。待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへ兎が飛んで出て、ころり転げた木の根っこ。行動心理学に間欠強化という言葉があるそうで、「毎回でなく、たまに・予測不可能なタイミングで報酬がもらえる仕組み」は、常に報酬がある環境よりも強い依存を産み出すという。行動心理学とか行動経済学の実験手法には首を傾げるようなものが多く、あまり信用していないのだけれど、たしかに、まあ、今の私は、タイムラインから間欠的に得られる知性の報酬を待ちぼうけて、野良仕事を忘れた農夫であろう。

やはり仕事だ。仕事しかない。ワークライフバランスのライフを広げようとするから失敗する。ドーパミンの量をほどよく保つにはワークのほうが適切だ。たくさんの障害を乗り越えた先に、正当な報酬が得られ、その頻度は少ないが、喜びは大きい。

しかし近ごろの私は、仕事の大部分をAIに丸投げしてしまう。これだともやもやとした悩みも、コツコツの努力も、途中の多くがすっ飛んでしまう。圧倒的な速さでいい仕事ができたとして、「まあ、そりゃ、AIが手伝ったんだから、できるだろうさ」くらいの気持ちになる。報酬はほとんど得られない。

なんかそういうことを言い表した故事成語とかあるの?


「便利な道具や過度な手助けによって効率が劇的に上がる反面、試行錯誤の苦労や手応え、本来の醍醐味・精神性が失われてしまう」という皮肉な空虚さを言い表した故事成語や古典の寓話が存在します。まさにその違和感を突いているのが以下の言葉です。 

機械の便利さに溺れて「心の働き」を失うことを戒めた故事

機心(きしん)/ 桔槹の戒め(きっこうのいましめ)

出所: 『荘子』天地篇

原典の逸話: 子貢(孔子の弟子)が、甕(かめ)に水を汲んで畑へ運ぶ重労働をしている老人を見かけ、「桔槹(はねつるべ:テコの原理を使った揚水具)を使えば、少しの労力で何倍も水が引けて効率的ですよ」と勧めた。

しかし老人は笑ってこう答えた。

「機械(からくり)がある者は、必ず機事(からくりの仕事・手際の良い仕事)をする。機事をする者は、必ず機心(功利を計る心・からくりの心)を抱く。機心が胸の内に宿れば、純白な心は保てず、精神が定まらなくなる。精神が定まらなければ、生きる実感からは見放される。知らぬわけではないが、恥ずかしいから使わないのだ」


あるんだ。ふーん。すぐわかっちゃって、つまんない。AIが私をワープさせる。つまらなくなる。さっさと床につく。また次の朝がくる。寝ても覚めてもワープばかりしている。藤子不二雄だ。私は、あこがれていた、藤子・F・不二雄の世界に生きている。

小国の心

見学した病理検査室で、顕微鏡のレンズにはApoの文字がなく、コンデンサーのネジは緩んでいて、ステージはパラフィンで汚れており、ランプは白熱灯で電圧は安定しなかった。でも、私は「大きくてすばらしい検査室です」以外の言葉を持たない。日本と同じメーカーの、やや世代の古い染色装置が、日本の何倍も並んでいるのを絶賛。小型のWSIスキャナをコンパクトで便利だと褒めちぎる。切り出し室に証拠保全用の監視カメラが何台も並んでいることを精度管理の妙と翻訳。これらはどれも、私が「若く見えます」と言われることと対を成している。

「若く見えます」と言えば日本人が喜ぶということを、海外の人たちはよく理解している。私はそれに、「そうですか? いやーうれしいですね」と答える。それは国際交流会話セットの一貫だ。別の道理をもちいて話をあらぬ方向に捻じ曲げる必要はない。

年々顔のしみは増え、指も節くれだって、首の肌も荒れていき、それらに一切のケアをしないくせに白髪だらけの髪だけはカラーで隠した私の、服はすべてユニクロで、合皮の革靴のかかとは死んでいる。それでも「若く見えます」と言われると、まるで私が若さや美容にこれまで気を遣ってきたタイプの人間として今を過ごしているようで、過ごすことのなかった別の人生に言葉だけでも接しているような気がして、ふしぎな浮遊感を覚える。

ありとあらゆる差別の構図に頭皮までどっぷり浸かりながら、それでも思うのは、この地に住む人びとの頭の良さとエネルギーの総量の多さだ。かなわないなと思う。「尊敬する」という言葉をこの地の言葉で何というのか、私は自分で発音できればよいと思った。しかし、2重母音、3重母音、私は人名ひとつまともに伝えることはできなかった。漢字を教えてもらい、国際ローミングのスマホからGoogleで検索をかけると、それはあまりによくできすぎた名前であるいは偽名なのかもしれないと不安になった。



「また来てください」と人は言うが、病理医の技術指導や講習は内視鏡医や外科医のそれと違って現地に直接赴く必要はないのではないかと思う。私の告げた「また来たいです」の言葉はやさしい通訳の人によって何倍かの分量に増幅され、社交辞令との境界があいまいとなるけれど、初心な国際交流にまっすぐ熱意を通わせる彼の国の人びとは、「それを言われるとうれしい」ということを全身で表現していて私は自分の思考の寄り道の多さが恥ずかしくなった。

それで私の心の奥の大事な何かに傷がつくわけでもないのだから

ようやくつながった、まる1日悩んでしまった。スマホの国際ローミングはすぐにできたのに、そこからテザリングしてもPCがインターネットにつながらない。「インターネットなし」。なんだか絶望する文字列だ。いやなものだ。こんなに依存しているのだなーと思う。

ホテルのWi-Fiはある。しかし中国のWi-Fiにつなぐと、Google系のサービスはまるで使えない。GeminiはまだしもGmailが使えなくなるのには閉口する(受信はたまにできるのだが……)。解決策をスマホでぽちぽち探す。スマホならつながるのでこういうことになる。不思議なかんじだ。つながっているのにつながらないのだから。APN(アクセスポイント)の設定をいじる。うまくいかない。どうしたものか。だめもとで、PCとスマホの接続をWi-Fi経由ではなくUSBケーブルにしてみたら、あっさりとテザリングに成功した。えー。こんなことだったのか。やはり有線だ。有線はすべてを解決する。イヤホンも無線は好かない。有線が一番いい。直接つながっていることの安心感に叶うものはない。飛行機もそういう意味ではよくない。大地とつながっていないからだ。

大連の料理はおいしかった。上海から来てくださったコーディネート担当の日本人の方によると、これで一人前3000円くらいとのことで、爆裂な円安であることを考えればさらに安い。まあその程度の歓待しか受けていないということなのかもしれないけれどちゃんとおいしかった。うれしい。特に辛すぎるということもない。味も幅広くて飽きない。ハオチー、ハオツー。むずかしい発音の「おいしい」を連呼するたくさん食べた。酒はあまり飲まないようにした。酒が飲めなくなってきている。

二度目の中国だ。やはり私の肌に合っている。トイレがな。トイレがめんどくさいよな。カギがなかったり、紙がなかったり、紙が流れなかったりする。西洋方式のホテルは安心なのだけれど、病院で一日仕事をするとたいていトイレ問題に悩まされる。けれどそれでも中国はいいところだなと思う。報道だとずいぶんと日中両国の仲の悪さを取り沙汰されるけれど、会う人はやさしい人ばかりだし何より優秀だ。2000床以上ある病院が、中国だと第一級ではないというので驚く。事実上の国民皆保険も整備されつつあるという。内視鏡のレベルは決して高くはない。病理標本のクオリティも低い。それでも症例数が圧倒的で人間たちの頭がよいので日本の医療を上回っているなと思う。AIの練度も高い。スマホを見せてもらったが同時通訳ソフトのスピードも精度もすばらしい。こちらに来てから私はChatGPTもGeminiも開けていない、アクセスポイントが中国国内であることがなにかの表紙につたわって、「中国国内での使用はできません」みたいに制限をかけられるとその後のリカバリが大変だからやめたほうがいいよ、と同行者に教わった。なんだか大丈夫な気もするのだけれど、こういう呪いは一度かかるとなかなか抜けられなくて、私は中国に来てから結局まともにAIに話しかけていない。ひさびさに身一つで動き回っている。

朝飯にうまい中国茶でも飲めないかなと思ったのだが見当たらない。あとでコーディネーターの方に聞いたら「朝はお茶はないですね」という。以前に重慶のホテルに泊まったときはあったのだが、あれが特別だったのだろうか。朝からあったかいお茶を飲むの、すごくよかったんだけどな。

中国にはたくさんの日本人医師がやってきていろいろ仕事をしている。こちらの人に、日本の医師がどういう過ごし方をしていたのかと聞くと、中国人に聞けばみな絶賛ばかりで、そうか、ちゃんと貢献しているのだなとこちらも誇らしくなるのだが、もう少し日本通の人に話を丁寧に聞くと、けっこうひどくて、たとえば世界に有名なある医師はずっと風俗ばかり通っていてろくに仕事をしなかったというし、お金のことばかり考えている人もたくさんいて、なんだか人それぞれ過ぎて少し引いてしまった。ただ、ちゃんと技術の交換をして高め合っている医師もいるのは本当のようだ。これは、なんというか、その人の自力というか地力というか、地の倫理みたいなものの差が出ているな、という感想を持った。



木曜日の午後に若い外科医が私のもとに突然やってきて、来週末の学会の病理写真をよこせという。さすがに時間がなさすぎるから断ろうかと思った。その非礼さを咎めようかとも思った。でも、こういう人間に理を説いて、もっと早くこないからだめだと門前払いをしたところで、そもそも無礼な人間なのだからどれだけ理詰めで言っても通じるわけはない。瞬時に考えて、嫌味を七味みたいに軽く振りかけたあとで、「いいですよ、お待ちください」と答えた。さきほどようやくテザリングできたPCを開くと彼からメールが来ていて、「火曜日までにください」と、無礼の五重塔みたいなメールが届いておりちょっと憤然としてしまった。すかさず返信で「さすがに無理です なめんな」とか書いたのだが、送らずに消す。メールの文面で激怒しつつ、あとはShift + Enterすれば送信できる、というタイミングでShiftに左手の小指をのせたままフーと冷静になってメールを消すタイプのアンガーマネジメントである。

こういう人には理屈を押し付けても無駄だ。何を言っても通じない。「電車の中で痴漢をしている男性を注意したらナイフで腹を刺された」みたいなことが起こる。

全国の病理医たちは、そういうケースをたくさん経験しているからか、「病理写真がほしければ学会の1か月前に所定の書式を書いて出せ」とか、「抄録に必ず名前を入れろ」みたいなルールを厳格化する傾向にある。でも、「倫理がないところにルールを課す」ことの無益さを思う。こういう人間たちは私と違う論理で動いている。矯正はできない。帰国したら彼のために私は病理写真を用意するだろう。その写真を使って彼は、私の名前も入れないままのプレゼンで学会発表をするだろう。それで私にはなにか不都合があるか? 特にないのだ、だって、そんな人間の「共著者になったことがある」なんていう不名誉、ないほうがましだからだ。これに味をしめてこれからも該当科からは、無礼な依頼が今後もくるかもしれない、そのたびに私ははいはいと言って写真を撮って渡すだろう。その部分で私が意趣返しをすることもないだろう。ただ、「そういう人間がいる」と、あと数十年くらいは稼働する予定の私の脳内に、くだらん人間の記憶がひとつ刻印されるほかには、世界に何事も起こらないだろう。それで私の心の奥の大事な何かに傷がつくというわけでもないのだから、いいのだ。

人様

LINEが使えないんだよな、どうするの? 同行者にLINE Keepメモの存在を教えると嬉々としてパスポートの写真をとってそれをKeepメモに貼り、PCで開いて入国の審査に使っていた。あれ、これPDFだな、JPEGにするのってどうやるの? それはスクショでいいんじゃないですか。あーできたできた。あれ、画像どこ行った? 失礼、PCを拝見しても? あーもちろんもちろん。あっここにありますよ。これですよ。本当だ、やっぱり先生のほうがこういうのは得意だねえ……。

一回りよりも年嵩の、ベテラン内視鏡医は、デジタル音痴のオーラを醸し出す。あーできたできた。ったく事前入国審査にこんなに時間かかるんだからやってらんないよなあ。ようやくカレー食えるわ。あー冷めちゃったよ。でもカレーはここのほうが絶対うまいよな。あっちのはだめだ。

私が知らないラウンジの話をしている。

あーようやくカレー食えたわ。よしよし。まだ時間あるね。じゃあプレゼン作るわ。そうやってChatGPTを開き、次々とプロンプトを打ち込んで、「思考中」のときだけ私に話しかけてくる。プレゼンはジェンスパークってのが一番よかったね。でもあれ金かかるんだ。ChatGPTとClaudeが。課金はいくらにする? こういうスライドもしょっちゅう作るからな。

LINE keepメモを知らないのにAIは複数課金して使いこなしている個人事業主である。そういう時代になったのだなと思う。中国に入国したらChatGPTは使わないほうがいいよ。あれ、国際ローミングしてテザリングしててもだめですか? うん、それはね、危ないっぽいよ、中国がっていうよりもChatGPTのほうでブロックされたりするかもしれないよ。あっできた、あれ、スライド1枚しか出力してこないな。でもちゃんとできてるな、よし、これでいいや。スライド3枚できたよ。

引用は、出典は、そういう書き込みはどうしてるんですか、と問うと、ChatGPTに作らせました、以外に言いようがないよねえ、へへへ、と言った。「オリジン」という言葉が脳をよぎった。脳が「オリジン」という言葉をよぎっただけかもしれない。

気が重く、かつ、わくわくとしている。



はじめてベンチを使う大学院生2名が、はじめて携わった実験の、結果が成功だった。動画が送られてきていた。うまくいくんだな、と思った。飛行機に乗っている間に研究計画書を作りたい。飛行機を降りるまでの間にChatGPTを使おう。いや、うん、自分で考えよう。むしろ、自分で考えてみよう。そのほうが、共同研究者たちも、何かのひっかかりを感じて、私のほうを向いてくれるだろう。ひっかからない研究計画書が多すぎる。人間が路傍の花になる日を過ごしている。人間が電柱になる日を過ごしている。人間が、野球の合間に放送される、洗剤や車のCMになる日を過ごしている。人間。

逆効果の言い訳

大連出張の際に事前にオンラインで入国手続きを終えられると聞いてぽちぽち入力。最後にQRコードがでてきて、入国のときに提示せよという。これは、スマホに入れておいてもいいが、到着直後にすぐにオンラインにできないこともあるだろうし、飛行機に乗っている間にスマホがまったく起動しなくなったら入国のタラップを降りずに帰国させられるウルトラクイズ状態となるので、印刷して紙で持っていくのがおそらくよいだろう。

電子化だのAIだのいろいろ言うけれど、クレジットカードだけだと怖くて現金を持っていくし(まだ両替していないけど)、結局パスポートは現物が必要で、VIVANTだとずいぶん簡単に偽造パスポートが出回っており、なるほど詐欺師はなにをどうバリアしてもすり抜けてくるものだなと思いつつ、となると、我々のこの面倒な手続きはつまり、我々が面倒になるためだけのものなのかもなと、少し落ち込んだりもする。とはいえ世の中には「雑な悪人」もおそらくたくさんいて、そういう人間たちを躊躇させるための必要なハードルなのだと思えば、100メートル走ればいいはずが余計に10メートル走らせられるハードル走の物悲しさもふくめて、まあ国境を飛び越えるときには跳ねるついでにいろいろ跳ぶのもやむなしかと納得するほかはない。

末尾に祝您生活愉快と書かれていた。そうだな。私の生活が愉快だといいな。

機内では某AI研究のアノテーションをやろうと思っていた。判断する画像が1700枚あるというから飛行機向きかなと思っていた。しかし昨日、ためしにはじめてみると、入力のために先方が作ってくれたUIがすごく使いやすくて、ものの1時間で1700枚くらいの画像に私の考えを入力することができてしまった。そうか、手続きの一切を簡略化させた場合、本来のヒト病理診断とはこういうスピードなのか。230万枚の症例を読ませたPRISM2がやべえなすげえなと思っていたけれど、たとえば230万を1700で割ると1300ちょっとであり、1日5時間病理に費やしたとしてもせいぜい270日だ、土日フルに休んでも1年ちょっとで見終える量である。1年ちょっと顕微鏡を見た病理医なんてまだ好酸球と好中球を見間違えるレベルだろう、だったらたいしたことはないのかもしれない。今の考察には重大な矛盾があります。PRISM2の230万という数字はパッチの枚数ではなくプレパラート枚数ですので両者を比較することは正確ではありません。なおPRISM2はウルセー!もういい!



学生が「歯医者に行くので」と言って帰っていった。16時半であった。はいどうぞ、と言ったのだが、そこでひとこと付け加えていった。「歯医者が平日しか空いてなくて……すみません」。私も毎月歯医者に行ってるからわかるよ。こういう言い訳は、かえって、内情のしめっぽい部分をスクラッチしてなにかを浮き立たせてしまう。学会の準備で忙しくて……。子どもの面倒を見なくちゃいけなくて……。そんなこといちいち言わなくていいのだ。だって、わかるもの。でも社会が長いこと、そういう言い訳をつけなければ自分の時間を過ごしてはだめなのだと、圧をかけ続けた結果、いまこうして、「逆効果の言い訳」を述べる人間が世に満ち溢れている。私もときどき言ってしまう。「すみません、毎日ぜんぜん寝てなくて」。そのくせブログには夢の話ばかり書いている。寝とるやないか。

フラジャイルがもうすぐ終わります

普段写真を撮ってますか、というから、近頃はバーチャルスライドからスクショでプレゼンを作ることが多いっすねえ、と答えたら、「違いますよォ~! 病理の話じゃないっすよォ~! リアルでスマホとかカメラで写真撮るかってことですよォ~! も~!」と笑われたので、インスタ映えする角度で牛裂きにしてやった。

ピッチャーのタイミングで打つな、自分のタイミングで打て、とはストッパー毒島に出てきたチック君の打撃アドバイスである。おそらくこの金言は億兆の民衆に浸透しているものと思われ、世の中の人間はみな、自分のタイミング、自分の言葉、自分の風景を私に押し付けてくる。それに対して私はマトリックスのネオよりも背骨がよく曲がる軟体動物となっていなばうあって(反り返っていなすこと。ちなみにイナバウアーは足先を180度に開く動きのことであり体を反らせるのとは関係がない、という有名なネットのツッコミは間に合ってます)避けていく必要がある(ただし牛裂きにはする)。

プレパラートの中から細胞像がわかりやすい部分に目星をつけて、ここぞというところで顕微鏡に接続したハイレゾなカメラで細胞の写真を撮る。これが私が長年やっている「写真を撮る」であり、顕微鏡というUIを使う時点で露出や絞りや色温度的なものを設定し終わっているので撮影の段階ではさほど気にしなくていいかというと、じつはそういうものでもなくて、やはり、伝わる写真を撮るにはいろいろと工夫しなければならない。「一番大事なものを真ん中に置く」という構図の大原則を守る。「非腫瘍と腫瘍の境界部をみせるとき、画面の2/3弱を非腫瘍部、1/3強を腫瘍部にする」という流儀がある。「インセットを多用するくらいならスライドの枚数を増やす」。「検索したプレパラートのルーペ像は、どれだけ小さくなってもいいので同じ倍率のものを並べて一覧を網羅できるようにする」。「絞りによってコントラストがついたようにみえるのはじつは気の所為(見かけ上シャープになっているが真のコントラストではない)」。

学生がブログを読んでいて、「今日はお腹は大丈夫なんですか?」と声をかけてくれたので、このブログはだいたい1週間以上前に書いているのでお腹は大丈夫なんですよ、と答えた。ただ、本当は今日もべつにお腹は大丈夫ではない。大丈夫ではないがコーヒーは飲むのだ。

こうやって、読んでいる人を想定した記事を書くと、とたんにうっとうしくなるんだよな、ということを思う。

私だけかもしれないが、短歌や俳句の作者がSNSで語りだすと、短歌自体の価値が落ちたように感じることがある。顔もキャラクタもわからない人が俳号だけで、もしくは詠み人知らずの状態で、文字だけで勝負して、それが文字数をはるかに越えた映像を喚起するところが醍醐味なのにな、と感じることがある。でも穂村弘が書くエッセイを鬱陶しいと思ったことはないので結局好みの問題なんだろう。

最近写真を撮っていますか、というので、いえ、インスタのアカウント持ってないんですよ、と答えたら、「違いますよォ~! 病理の話っすよォ~!」と言われた――という世界線にあこがれていたこともあった。ずいぶん昔の話だが。

読めば納得

あそこの教授、科研費の申請書を見てもらったとき、その日のうちにコメントくれて、アレって本当にすごいことだったんだな、としみじみする。

他人の申請書を読むのってすごい負担だよ。ただ読むだけでもすごいのに。教育的な視点まできちんと込めて愛情までのっけて返してくれたのか。超人だ。とんでもねえな。すげえ。


みたいなことをたまに考える。人間の本性の根っこのあたりから感謝の気持ちがふつふつとわいてくる。ああ、ちゃんとしよう、しっかりしよう、がんばろう、みたいなことを順番にしみじみ思う。こういうことは自分の中からわいてくるのが一番いい。人に言ったらハラスメントだ。市原・ハラスメント略してイチハラだ。このネタもう10回以上使ったけどまだ飽きない。飽きない、すなわち、人間の本性の根っこのあたりからわきあがってくるもの、ダジャレ。そういうことなんだろう。どういうことか。


『倫理という力』。いい本だなあ。


あまりに疲れて仕事が続けられないのでどでかいシュークリームを買いに行く。


買った。将棋指しの気分。この程度で棋士を名乗ってしまっては怒られるだろうか。病理医の世界では岸を名乗るのもセンシティブである。戦士の恥部はセンシチブである。本当に疲れている。限界である。

徹頭徹尾肛門の話

まだあまり腹具合がよくないのかな、とは思った。目が覚めて、トイレに行きたいなと思いつつまずはうがいをし、しょぼついた目でスマホをみるとまだ2時だ。えっ、この時間に起きちゃうんだ、いやだな、まあ、腹の叫びってことかな。ひとまず寝直して、次に目が覚めたら7時18分である。さすがに驚いた。今日もいつもどおり5時に起きて、6時半過ぎには家を出て2時間運転するつもりだった。これはどうやっても取り返せない。先方2箇所にいつごろ、どの順番でお詫びとリスケをお願いするかを考えつつ、のんびり飯を食う気持ちにもなれずヨーグルトだけ食べて血圧とコレステロールの薬を飲んで、すぐに着替えて家を出た。絶対に間に合わない。ここで急いでもどうしようもない。

明日は早朝から新千歳空港に向かって伊丹に飛ぶ。来週は羽田経由で中国だ。これらの出張で寝坊していたら本気でまずかった。ある意味、今日でよかった、と言える。しばらくは寝ながらも緊張していて寝坊することはないだろう。

というか、驚きがまだ収まらない。私はこのようなタイミングで寝坊する人間だったのか、と気づかされた。これまで、性格的にも体調的にも、なにか大事なストッパーをここんところ壊してしてしまったのかもしれない。いろいろと自分が心配である。



ここまで書いて急に仕事がしたくなり、して、終えて、さっさと寝てしまった。今度はさすがにちゃんと起きた。伊丹についたら梅田に向かう。グランフロントの地下でさっとしゃべって、すぐに伊丹に戻る。空港の書店で『魔力枯れのダークエルフ』が大展開されているのをみてすかさずKindleで購入した(こんなやりかたでは書店はかわいそうだ、申し訳ない)。機内ではまず『戦争と差別について哲学は何を言えるのか』の続きを読む。このKindleを読むのは北海道に帰ってからになるだろう。まあ、よい。本とはそういうものだ。

本の買い方についても何かストッパーを失っているかなとは思う。本を買うのに前よりも躊躇がなくなった。ブランド品、車、家、そういったものを買うことはなく、服飾、雑貨、食品、そっちもべつに買わないが、本は買ってしまう。ただ私は積ん読が性格的に苦手なので買って積むことは基本的にしないが、今読みたい、と思ったタイミングで電子にデータがあれば買う。あるいは、だいぶ昔の医学書が、古本で高額で出ていたとして、それを読みたいと思ったら古本屋のもくろみどおりの高値で買う。たいして値段を吟味するわけでもないのでそこで損をしたことはきっと何度もあると思う。これは、気持ちよく散在するというのでもなく、豪儀に目下のために金をつかってやってるというのでもなく、「まあいいや、どうだって」のヤスオカ的メンタルではないかと思う。我ながら罪悪感というか、壊れた穴から水がちょろちょろ出ているプランターを見てため息をつくときの気持ちというか、そういうやるせなさが伴う。自慢できる話ではない。



ストッパー、あるいは括約筋のようなものが壊れたり緩んだりしている。よくない歳のとり方をしている。老化、呆け、前頭葉がくたびれてきたのかも。



サザエさんで、波平が新聞を読み、ある著名人(山本雄三?)の訃報に際し、「『子孫に美田を残さず』、すばらしい、ワシの考え方といっしょだ」と言う。するとカツオが「さ と せ の違いだね」と言う。「美田を残せず」。波平は怒ってカツオを追いかけていく……。

私は、小学生のころだったか、そのマンガを読んで、「美田を残せず」とはつまり「宵越しの金は持たない」みたいなものかなと、よくわからない理解をしたのだけれど(カツオの他虐ではなくそういう格言があるのかと思った)、今の私は、うらぶれてわびしくも小さなプライドにかかずらって日々をしぶとく生きている落語の世界の江戸っ子のメンタルにとらわれて、「ストッパーなんてたいしていいもんじゃない」と自分に言い聞かせている……、のではないか……と、メタに眺めてぞっとしている。

括約筋が緩んで人にとってうれしいことなど一つもない。肛門にしろ、食道胃接合部にしろ、涙腺にしろ、あっいや、涙腺には括約筋はなかったかもしれない。あと、細かいことをいうと、食道胃接合部に括約筋は存在せず、複数の筋肉や靱帯が共同して結果として括約機構を果たしているだけだ。ていうか肛門括約筋というのも、じつはそういう筋肉がひとつあって肛門を締めているわけではないかもしれない、なんてことを、近頃の解剖学は追求しているという。ブログで読んだ話だけれど学会でも聞いたことはある。括約筋っていう概念はすごくわかりやすいけれど、すごくわかりやすいだけに、じつは形而上学的な概念なのかもしれない。脳内の思考の括約機構もまた、複数のメカニズムが結果としてせーのでなにかを押し留めているだけで、老化やあきらめと共に複数のものがいろいろと動いていく過程で、「何が壊れたかはわからないが、結果としてたれながし」になっているのかもなあというイメージを喚起させる。だとしたらそれは修理は不可能だ。そして私はべつにそこは直さなくてもいいかなと思っている。寝坊だけはいただけないが。

ルーティン

病理解剖をやっている。私も手伝いに行きたいのだが今日はべつの当番があるのでデスクで待機している。オンコールの仕事が終わったらすぐに手伝いに行こう。病理解剖にはやることが多い。直接執刀だけでなく、周辺業務もたくさんあるし、その場に脳をひとつ増やすだけでもだいぶ役に立つ。病理解剖は死者を真ん中に置いたキャンプファイヤみたいな側面があって、みんなが遺体の奥底の事情に思いを馳せながらこれまでの医療やこれからの医療について、解析半分、検証半分、独白半分の、あわせて1.5倍の思考をする。そこには脳がなるべく多く存在したほうがいい、だから私は自分の当番ではなかったとしても病理解剖の様子を見に行くようにしている。

タイムラインにりくりゅうとトクリュウの話が交互に上がってきている。

病理解剖をやっている。まだ自分の役目が終わっていない。デスクで待っている。こういう時間がめったにない。猛烈に眠くなる。やるべき仕事はいくつもあるのだが、今日やるつもりでなかった。空き時間がぽんとできたならば直ちに仕事をここに差し込むべきである。しかしなんだか、ひどく頭がぼんやりとしていて使い物にならない。早く当番の仕事を終えて病理解剖の手伝いに行きたい。

AIに話しかけている。

病理解剖は終わった。結局一瞬しか見に行けなかった。着替えることもしなかった。申し訳ない。しかし解剖は、解剖して終わりではない。ここからの検証がさらに大切だ。その部分にコミットするために、一度だけでも顔を出しておくことができたのは、まあよかった。

AIが毎回ちがうことを言う。

燃え殻さんが、毎朝かならず1200字ずつ書く、と書いていた。私はこのブログでだいたい何文字書いているのだろう。ここまでをカウントするとだいたい700字だった。すごいなと思う。今日の私は、700字くらいでもう、いいかなと思ってしまっている。

AIが毎週月曜日にわたしにリマインドをしてくれるそうだ。8週間以内に迫った各種の研究費・助成金を書け書けと教えてくれるのだという。よろしくと答えた。それで仮に研究費をとれたばあい、それはもはや、私がとった研究費ではなく、AIがとってきた研究費なのではないかと思った。なぜなら人は、「やれやれ」と言いながら立ち上がるときこそ一番人だからで、その、立ち上がる部分をAIに仮託してしまったら、それはもう人として大事なことをひとつ失っているのではないかと思うからだ。

病理医ヤンデルの所見

細胞をみて言葉にすればするほどAIが過去の文献をうまく探してきてくれる。しかし、言葉の選び方がしょぼいとなにもできない。「クロマチンの増加した異型核を有する腺系の腫瘍細胞が管状・乳頭状・索状構造を形成して増殖しています。浸潤性の腺癌です。」病理医が納得するためだけに書かれたこんなエクスキューズの所見からは、AIは何も探してこない。クロマチンの増加していない腫瘍細胞を探すほうがむずかしいからだ。異型核という言葉はじつはなにも情報を付け加えないからだ。腺癌が管状・乳頭状・索状を呈するのは極めて一般的だからだ。弁別の役に立たない質問を繰り返すアキネーターのようだ。そんな所見のとりかたでは、世界がひそかに思い浮かべる人物の名前は、永遠に出てこない。

細胞を

みたときに

どうやって

表現するか。

ここで必要とされるのはオリジナリティではない。自分だけが考えた最強の言い回しは、過去に報告されていないわけだから、さすがのChatGPT proでも検索効率が落ちてしまう。もちろんAIは勝手に言い換えをしたり、言葉と言葉の関連からおそらくこういう意味だろうと推し量ったりをやってくれるのだけれど、その手間が加わるぶん、数千万くらいのトークンが無駄に消費され、手の上の産毛にあたってあらぬ方向に転がっていく水滴のように、答えがわずかにずれる感覚がある。病理所見は、詩であってはだめだ。では、細胞をみたとき、どうやって表現する? 「病理診断がものすごく上手で、細胞像の描写に過去イチ長けた書き手が用いたであろう言葉、そしてそれに感化されて、まねして、多くの病理医が過去に文献上で用いた言葉」を知っておく必要がある。そのような言葉の中からさらに、「ある疾病や病態を言い表すときに特化して使われた言葉」を選び取ることが求められる。それは、ひとつの言葉AのとなりにBが高確率で存在するだろうという、言葉と言葉のつながり・連想で導き出される言葉であってはならない。あくまで細胞の、細胞を薄く切ってエオジンとヘマトキシリンで意味ありげにお化粧したものの、意図もりもりに生成されたところの「細胞像」と、直接共鳴するような言葉でなければならない。その像をみた人がこの言葉を用いるならば「納得」する感覚、なるほどそれは後世に残せばきっと便利に使われるであろうなという言葉を探しに行く。いわゆる「言語化」という言葉とはニュアンスが少しずれているのかもしれない、みたいなことも少しだけ思う。

こういったことをしっかりやれている間は、生成AIを用いた病理診断がかなり有益になる。逆にいえば、このような「所見の練り上げ」をやらず、やれ石灰化があったとか、やれ二層/相構造が消失したとか、やれCD8陽性T細胞が何割あったといった、定性的・定量的な記載だけで生成AIを使おうと思っても、じつはあまり役には立たない。いや、役には立つのだろうが、それはなんか、あまり、おもしろくはないものだな、と感じる。おもしろくなくてもミスや不備が減るならそれはすばらしいことなのだけれど。


ふくよかなはらわた

ドパオジ状態でぼうっとXを見ている。見たことのない話題、興味を持ったこともない話題、というのはあまり流れてこない。今日はひたすら関西弁の話、関西弁の人間たちの会話はほかの地域とちょっとちがうという話が流れており、ほか、エヴァを全編みなおした人のシン・ゴジラの感想、作者の名前が思い出せないがよく目にするウェブマンガ、中国のロボットが陸上を疾走する動画などが延々と流れて、それのどれにも全く心は動かされないのだがフリックに必要なくらいの振動が脳に与えられており、結果として15分ほど無為に過ごした。ドパオジだな、と思う。思えば倍速再生でもなんでも、ひとつのコンテンツを腰を据えてみるという行為のほうがよっぽど有意な時間になるよなあ、と、声にはせずとも文字にして思い浮かべてみると、そうかな、べつに、どんな体験もしばらくすれば均等に砂になって崩れていくのではないかな、という冷静な返答が、文字としてではなく声として聞こえてくる。報酬系のこと。報酬。報も酬も、訓読みは「むくいる」と読む。むくいるという言葉はむくいぬを思わせる。むくいぬは漢字で書くと尨である。さっと伏せた犬の象形文字であることはあまりにも有名。なんかこれ、ポスト向きだな、と思ってXにそのままポストする。


反応を待たずに仕事をはじめる。報酬をもらわないまま報酬系に奉仕している。奉も仕も、訓読みは「つかえる」と読む。うそである。奉はたてまつる・まつる・うけたまわる。うけたまわるという言葉はだいたひかるを思わせる。だいたひかるとはいったいどういう漢字を書くのだろうと思って検索したら「代田」であった。しろた、じゃないんだなと思う。しろたひかるだったら、白く光るふんいきだったろうな、と思うし、だいたひかるだと、紫立ちたる雲の細くたなびきたる、を思わせて、こちらのほうが名前としてはふくよかだな、と、声にはせずとも文字にして思い浮かべてみる。


「ふくよか」とは漢字でどう書くのかなと思って調べたら、二件が該当した。「脹」と「膨」である。なるほど、膨張ってことか……としばらく納得していたのだが、よくよくみると、膨張という字の張はゆみへんである。「ふくよか」のほうは、「脹」だ。「脹」? 大腸、小腸、の「腸」とも似ているが、ちょっとちがう。「腫脹」の脹。へえ、キータッチしているときはあまり気にしていなかったけれど、「膨張」と「腫脹」という言葉の、「ちょう」の部分はちがう漢字を用いるのだな。膨張という言葉は非生物にも使うが、腫脹という言葉は基本的に生命・臓器に使う、だからにくづきなんだろう、それにしても、私はおそらくこれをPCでなく自分の手で書いたら、今の歳までずっと書き間違っていたかもしれない。あまり意識していなかった。

脹という字はふくよか。腸という字ははらわた。ふーん。しかし、字面だけみてみると、脹という漢字のほうが、「長さ」を含んでいるぶん、消化管っぽい。大腸の腸が「ふくよか」という訓読みを持っていたら、おもしろかっただろう。私は病理医としての専門性のかなり上位に大腸病理があるのだけれど、もし大腸の腸が腸ではなく脹だったら、「私はふくよかな世界を専門としています」みたいなことを言えただろう。文字ではなく実際に声に出して言ってみる。「私はふくよかな世界を専門としています」どうしてだろうか、肌が喜ぶような感覚を得た。これは肉体からの報酬なのか、文化からの報酬なのか、単なる誤認なのか、ドパオジのドーパミンはドパドパ出るからもはやよくわからない。