あります

落ち着かナイトプール~~ パシャ パシャ ~~ 

という感じである。ノマド暮らしがはじまって、昨日はバイトの医者が座る仮デスク、今日は本日お休みの嘱託医がふだん座っている奥まったデスク。毎日違った椅子で違った高さからノートPCを見下ろす。頸髄が削られる。昨晩、ひさびさに左腕がしびれた。そのうち治る。

あと3か月続く。

病理診断をするには顕微鏡と、病理診断支援システムの入ったPCが必要だ。これらはいずれも、ひとつのお気に入りを使い続けたほうが効率がよい。それに対して今の私は、あたかも路上ピアノを流しで引きまくっているような状態で、さすがに今のところ腕は落ちていないが機器との相性が毎日リセットされてデバフがかかっている。自然と、病理診断以外の仕事で科のサポートをしていこうという気になる。

病理診断科全体の仕事の流れを見る。どこに負担がかかっているかを確認する。外注の差配か、切り出しのサポートか、会議か、研修医指導か、臨床医の学会準備の手伝いか。診断をほっぽらかしというわけにはもちろんいかない。新任の部長が環境に慣れるまでの間、どうしても診断速度は遅くなるので、滞りそうな部分の仕事をスポットでヘルプできるよう、「いつでも診断はできますよ」の顔で控えている。ただ、着任したばかりの新部長が、知ってはいたけれど思っていた以上に優秀で、あまり仕事を溜め込むようなタイプではない。たぶん1か月もすると、私のやっていた仕事はすべて普通にこなしてくださるだろう。

手持ち無沙汰ではない。しかしどこかざわめいている。

職場に迷惑をかけないことが大前提だが、職場の外の仕事もすすめる。講演や研究会の病理解説のプレゼンを、前倒しに作っていく。9月までのプレゼンは作り終えているのでその先のプレゼン。デュアルモニタがないので仕事の効率はよくない。しかしまあ診断の総量が減っているから、効率がよくなくてもそのまま泥臭くやっていけばトータルではいつもより早くプレゼンができそうだと思う。

放射線技師向けの病理の講演が2つ。臨床検査技師向けの講演が1つ、2つ、CPCのプレゼンが1つ、講習会用のテキストの原稿を2つ、内視鏡医向けのウェブセミナーの講演を1つ、内視鏡医向けの2日連続講演を内容がかぶらないように2つ、医師向けの講演を1つ、その翌日の技師向けの講演を1つ、自分が出席しない会(日程が別のとかぶった)のための病理解説を4つ、研修医向けのプレゼンを1つ、医師向けの講演を1つ、技師向けの講演を1つ、医師向けの講演を1つ、学会主催講習会のプレゼンを2つとテキストを2つ、専攻医向けのプレゼンを1つ。現時点で確定している年内の対外仕事。あとは毎週木曜日の朝にやっているウェブの内視鏡研究会、毎月第2金曜日にやっているウェブの内視鏡研究会、毎月第1水曜日にやっているウェブのX線研究会、毎月第4水曜日にやっているウェブの超音波研究会、3か月に1回程度の内視鏡研究会×2、あたりのプレゼンをその都度作っていく。借り物の顕微鏡で組織写真を撮り、小さなノートPCでちまちま組み合わせていく。

病理医の講演にはちょっとした特徴がある。薬や手術の話をしないし基本的にグラフやデータベースが出てこない。臓器の肉眼像や顕微鏡で見る組織像を組み合わせるのが基本だ。文字で構成したスライドは「どこかに書いて出しておいたほうが便利」なので、プレゼンの中にはさほど入れない。「胃の生検を見るときにはまず弱拡大で全体を見る(ポイント!)」みたいなことは書かない。代わりに用意するのは模式図、解説図。私にもう少しデザインのセンスがあったらもっと見栄えがよくなるんだろうなということを考えなくもないが、しかし、デザインされたスライドでは組織像に無駄な先入観や強調がかかってしまうし、逆に情報を削ぎ落としてしまうこともあるように思う。言語化の向こうにあるテクスチャをそこに残しておこうと思うとあまり写真を「お化粧」してはいけない、と、思う(あくまで意見)。視線誘導は意識するが、それは、視線を故意に誘導してこちらの意図した結論に向けて引っ張ることのないよう、「視線を誘導しすぎないように!」と肝に銘じるためだ。同様に、ライティングとかコピーライティングの技法にも興味があるが、それらを用いて講演をすると「それっぽく聴衆が納得してしまって、逆に本来ならば言外ににじみ出るはずの病理のニュアンスが失われる」のではないかと私は本気で懸念しているので、つまりは名物ライターとか大物アナウンサーとか超絶インフルエンサーの技術みたいなものを「知って、使わず、避ける」ことでようやく病理が求められる・求められる以上の講演になるのではないか、と、思う(あくまで意見)。

理想のかたちの一端にはかこさとしの「ものづくし」的な提示。もう一端には水墨画がある。映画やアニメの画作り的なものが理想になるかというと、おそらく、ならない、病理の講演というのは、それ自身が一本の映画になってしまってはだめで、講演を見た人それぞれが監督となって私の講演という体験をベースに心の中で映画を一本作りたくなるように作るべき、だと、思う(あくまで意見)。

こんなどうでもいいことをずっと考えている。ところで落ち着かナイトプールにはポロリはあるんですか?