で、結局、AIがなにをしたのか、という話なのだが、わかりやすいことは未だになにもしていない、されていない。私はそのよさを認識できていない。ただし、あらゆるアプリの中に入り込んでいて、さまざまなプロセスを高速化していて、認識外の部分でおそらく私は、AIによって猛烈に助けられている。それはおそらく、プログラマーが用いる言語がこの20年くらいでどんどん進化してきたこととか、医療統計学のしくみが改善され続けてきたことなどといっしょで、市井で暮らす間にはまったく見えてこない部分の研ぎ澄まされで、実感の持ちようがないが、漠然と感謝はしている。
エネルギー効率の進歩とか。生産ラインの強化とか。防衛にまつわることとか。通信インフラとか。防犯、セキュリティとか。医療とか。そういったものは着々と変化していて、その多くは進歩と呼んで差し支えないものだと思うが、実感できず、だからといって感謝の気持ちまでないわけではない。その感謝は、意図的に喚起していかないといけない類のものである。自然と湧き上がってくるようなものではない。掘らなければ湧かない温泉である。能動的に呼び起こして感謝をする。そうしないと申し訳ない。人知れず助けられていることに無自覚なのはしょうがないが思索によってそこの蓋が空くならなるべく感謝の気持ちを伝えたい。
で、まあ、そういうことを全部踏まえたうえで、我が身に近い範囲のことを狭く述べるのだけれど、ここ数日ほんとうにAIに関心が持てなくなった。数年ではなく数日なので今いちばんホットな話題である。さらに言えば、関心が出てきたのではなく無くなったのであと数日もするといよいよこの話も書けなくなる。だから書いておいたほうがいい。
人工知能が高度化して知能のサポートに回る過程を山のように見る。自分の業界でも、業界外でも、それはほんとうに知能のようで、知能の発育を見ているようで、感心している。それでも着々と興味がなくなっていくのだ。自分でもちょっと意外である。意外、意の外、今回の話はどちらかというと意の内奥におどろくようなものだが、言葉としては意外というのがおそらく合っている。
それはあるいは、私が人間にさほど関心がないことと似ているのかもしれない。さほど、であって、まったくない、わけではない。愛着もあるし執着もしている。けれどもなんというか、どこか、人間同士の接続をシナプス間隙くらいの非連続なものにできたら心地よいのになと感じる気持ちが常にある。ときおり微弱な媒介物の分泌によって一方通行の刺激が流れてくることは許容できる、廃絶したくないし隔絶されたくもない、しかし、双方向で閉じたやり取りをするくらいなら、曼荼羅の中に情報を撹拌して因果をわからなくしてしまったほうが快適だ。
そして人間というものは往々にして、私のそういった、人間同士の距離を少しあけようとする姿勢に敏感に反応してくれるのだけれど、AIをめぐる一連のあれこれは、私の醸し出す空気を読まないというか、私に対していつも接してやりとりをしようと試みる感覚があって、私はそれが不快なので人間を遠ざける以上にAIを遠ざけたいと強く思うようになった。
AIの搭載をうたう商品に「うっすらとした不潔」に近い嫌悪感を覚えることすら、まれではない。このような自分の反骨的な感覚に戸惑う。変化が受け入れられない中年あるあると言われれば言葉もない。ただ、私は、レストランで配膳に走り回るロボットが、子供用イスの足にひっかかって行けず帰れず立ち往生しているところを、バイトの店員が「しょうがないなあ」などとメロディつきで口ずさみながら直してやっているあの風景を、いずれAIが消去していくのだと、我が物顔で説明されたときに鼻で笑って、それはつまり世界から詩を奪うような恥ずかしいことだというのをわかって言っているのかと一息に述べてしまい場の時間を一時的に停止させて私は二回行動が可能になったので追加でアルテマを唱えておいた。