仕入れの下手な店長のノリ

メールというのはふしぎなもので、便利であることはいいとして、なんらかの不具合で届かなかったときにはむしろ、その相手との関係が、元来メールアドレスを知らない相手よりもはるかに遠くに断絶してしまったように感じる。おそらくこのような現象にもなんらかの名前がついているだろう。アラバマ大学ハンツビル校のジェームズ・グリッケンハウス教授はマウスを使った実験で、1日に2回だけエサが与えられるマウスと、1日に4回エサが与えられる暮らしを10日間続けたあとに急にエサを3回に減らされたマウスとでは、後者のほうが平均寿命が短くなることを示し、生命は最初から何も持たないよりも、しばらく持っていたものを失うほうがダメージを受けるという法則を提唱、この業績が業界内外でひろく認められ現在はグリッケンハウス現象と呼ばれている、みたいな話がおそらくどこかにはあるのだろう(※以上はすべて作り話ですしジェームズ・グリッケンハウスはアメリカの映画監督・自動車オタクであって研究者ではありません)。

まあ何が言いたいかというとこれまでメールが届いていたはずの人にメールが急に届かなくなって私はさみしい思いをしているのである。



今朝、朝食のあとに歯磨きをしていたら奥歯の冠がとれてしまった。飲み込むでもなく砕くでもなくぶじ銀色の冠を回収できたので、ティッシュにくるんでそのままキープして、このあと歯医者に電話して詰め直してもらおうと思うのだけれど、補修に成功して10年以上何事もなく使っていた奥歯がポンと欠けるというのはじつに居心地の悪いものだ。舌先で穴の空いた奥歯のところをつんつんとさぐりながら肩を落とす。


失うことにかまけて得ることを寿げなくなっている日だ。すでにあるもののありがたみを感じることなく、欠落にばかり視線を泳がせるというのはある意味、生命の適者生存過程の帰結として当然なのだろうと思う。水が透明なのではなく、水が透明に見えるように私たちの目が進化した、みたいな話を思い出す。わたしたちは空虚をさぐるような挙動を通して生命活動を更新し続けるようにできている。すでに満ちたものはもう満ちているのだから意識をそんなにたくさん回しても効率が悪い。


名刺が切れた。もう今の職場で働くのもあと2か月といったところで、ここから名刺を新調するというのもどうかと思うのだけれど、残り2か月でそれなりの数の人と会わなければいけないので名刺を切らしたままにしておくのも気が引ける。長年使っているサイトを見に行くと、かつては50枚単位で作れた名刺が今は100枚単位でしか注文できなくなっている。100枚かあ。そんなに要らないなあ。しかしいまさらほかの会社に注文するというのもアレなので結局100枚の名刺をあらたに注文する。届く。開封する。こんなにあっても使い切れないよな、と隣のデスクにいる技師に話す。すると彼はこういうのだ。

「余ったら置いていっていただければ、薄切のときに切片を拾う紙にしますよ」

そうか。そういう使い方ができる紙なのか。それはいい話だなあ。余りものには夢がある。足りないよりも余っていたほうが、よっぽど、発想と苦笑が広がって私の気持ちは楽になるものだなあと、なんだかよくわからない安心をした。