献本は未来永劫お断り

某大学の病理部から職場あてにとどいたお中元がお菓子だった。部門のみんなでちょっとずつ分けてバリバリ食っている。お中元という文化はすばらしい。家庭と家庭、個人と個人でこれをやれと言われてもめんどうだが、職場同士がお菓子を送り合うなら、予算的にもかわいい。職場で各人の割当分のお菓子をデスクに配り、ひと仕事終えた朝7時30分に包みを開けて中身を口にほうりこむとき、仕事の時間に一切期待していなかった余分な糖分がエクストラ報酬として脳を揺らし、なるほどこうやって働くというやり方もあるのかと、毎年この時期になるともっと余裕のある仕事のペースがあるのかもしれないなと同じように一考し、明日になるとすべて忘れてまたアコヤ貝を採りに潜る海女さんの心持ちで仕事に潜水するけれど、それはそれとしてお菓子とのひとときの逢瀬はまるで日焼けの記憶のようにじんじんと体を火照らせる。

お中元。よいものだ。物流・配送を担当する方々には手間をかけるけれど、そこはなんかうまく適切な稼ぎに落とし込んでいただければこちらも助かる。物のやりとりだからよい。金が発生するからこそよい。心のやりとりよりも何倍もカラッとしていてよい。効率は悪く、無駄が多く、能書きがうるさく、しかし、そういったものを全部忘れてしまえばこれほど「ほくそえむ」ものもそうはあるまい。お中元はよい。




書籍の企画でたくさんの医者にインタビューをして回ってはや1年。企画は順調で、もうすぐインタビューも終わる。ただ、ここからの残り数人も、私が各方面で尊敬する方々なので、気は抜けないし楽しみにしている。スケジューリングについてはいつも苦労している。みんな本当に忙しくて、お休みという概念が基本的に存在しない人ばかりで、なんとか無理をいって土曜日の午後とか日曜日の午前中みたいなところに時間を作ってもらい、いそいで航空券を押さえて日帰りで飛んで話を聞いてまた帰ってくる、いう感じになっている。そんな中、ひとりの偉大な内科医が、インタビューの直前になって予定が合わなくなり、リスケジュールすることになった。私としては別に問題ないし、書籍の進行的にも想定の範囲内なのだが、とうの先生はとても恐縮してしまい、こちらとしてはむしろお忙しいところかえって申し訳ございませんと、日本人らしく互いにすみませんすみませんのやりとりとなった。そのやりとりの過程で、編集者を介さずに私宛のメールがとどく。

「おわびにご飯のお供でもお送りしようかと思うのですが、チャンジャなど召し上がられますか」

なるほどこれは困ったな、と、前の私ならば思っていただろう。かつてはとにかく人からものを送られるのがいやだった。送るのは好きだ、結婚の祝いとか転職のはなむけだとか、カタログギフトだったり特産品の詰め合わせだったりをこちらから送ることについては心が踊るのだけれど、人からもらうと絶句してしまう。端的に言って「ありがためいわく」であった。自分でコントロールできないものが外からやってきて、自分で計算していない賞味期限を考えながらいつもと違うリズムで過ごすのが苦手、ということなのだ、今にして言語化してみるとうーんワガママだなと思うけれど仕方ない。自分がものを送るときにはそこまで考えていないのでこれほど自分勝手な話もないと思うのだけれど、こういうのは理屈というよりも持って産まれた気質みたいなもので、いかんともしがたかった。

しかし最近の私はよくも悪くも摩耗した。そういうのがちょっとだけ平気になっている。チャンジャという言葉に瞬間的に心がときめき、「ものをやりとりするくらいには警戒心を解いてくださっているということなのかも」といううれしい気持ちが自然とわきあがってきて、メールに以下のように返事を書いた。

”お世話になっております、ご連絡まことにおそれいります。かえってお気遣いをいただきまことに恐縮です。お気持ちだけで十分ありがたく存じますが、チャンジャなど大変好物ではございまして、それではお言葉にあまえて病院までお送りいただければ幸いです(下記署名内をご確認ください)。こちらからも夏のお品物など選んでお送りさせていただきますので、ご発送の際にはお荷物を受け取れる住所などご記載いただければ幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

市原 拝復”


「チャンジャなど大変好物ではございまして」のくだりなどお調子者以外の何者でもなくて苦笑してしまう。ただ、「こちらからも夏の~~住所などご記載いただければ」のあたりは、うん、我ながらうまく書いたものだなと、いや、社会のマナーとしては、マナー講師陣が揃って膝から崩れ落ちるようなメールなのかもしれないが、でも、これくらいまでやりとりできるくらいにはなったのだなと、おそまきながらの成熟度合いに自ら及第点を付けるに至る。




これまた別の話になるが、以前に仕事でご一緒した方から「夏の品物」が届いた。ひとつは乾きのよさそうな、「垢すりの手ぬぐいのちょっといいやつ」みたいなもので、もうひとつは冷感ならぬ霊感グッズで「霊がいるとランプが光るアクセサリー」なので笑ってしまった。夏のギフトとしては価格帯を考えてもなかなか見事である。そうめんとかビールとか洗剤を送り合うのもいいけれど、こういう「自分では買わない絶妙なラインの品物」を送られるというのは気分がいい。いや、違うか、正確には、「こういうのを送られてもいい気分になるような相手から送られてきたものだからよい」のである。誰から送られてもうれしいわけではない。フォロワーから食べ物が送られてくるとか本が送られてくるとかいまだに恐怖でしかない。結局は間柄なんだよな。その「間」の設定がとかくうまくいかない私という人間にもずっと問題はあったのだ。とはいえそれを許せるのもまた私しかいないのだ。