研究をしよう

朝起きた瞬間に鳴っている音楽というのはどうにもアンコントローラブルで、サカナクションだとか米津玄師のようないかにも「頭にこびりつきそうな曲」ならばわかりやすいし、BABYMETALだったりJUDY AND MARYだったりするとおっどうした何の夢を見たんだと懐古主義的大脳旧皮質になんらかの気配を感じ取ったりもするのだけれども、ダンバインのOPテーマだったりがんばれゴエモン2奇天烈将軍マッギネスの城の音楽だったりするともはや困惑する。睡眠中の脳の活動の途中から、覚醒に伴い急速に因果の世界の辻褄合わせがはじまって、トンと着地する場所がオーラバトラー、それってどういうこと、AIにたずねてみればそれはそれでわかりやすいひとつのストーリーを捏造してくれるのだろうけれど、実際にはセル・シグナリングのパスウェイを図示するくらいの雑な近似にすぎなくて、私達はみな、遠因はわかるけれど原因はわからない世界にこびりついた油汚れのようなものなのだ。

とはいえ何もかもを複雑系のわからなさに持っていくのもほんとうは違っていて、たとえば音楽理論のようなものをしっかりやると、私が朝目覚めたときに脳内でリピりやすいタイプのリズムとか構成といったものにある程度の共通点があって、それはBPMとか調といった人間が測定のために設けた基準では到底語りきれないものなのだが、聴く人が聴いてセンモンテキによく考えれば、「なるほど、あなたの脳はこのタイプの共振を求めて朝方に自動的にこの音楽を鳴らすタイプなのですね」と納得してもらえる、そういう可能性もけっこうあるんじゃないかなとわりと真剣に考えている。

およそありとあらゆる研究というのはそういうものだ。「複雑すぎるから考えても無駄」と、世の大多数の人間が納得できてしまう程度には込み入ったものを、長い年月と深い執着によって見て、見すぎた、白目をバキバキに血走らせた好事家たちが、言語よりももうすこしコミュニケーションに向いていなくて、言語よりももうすこし解析に長けているなんらかの別の持続的インスピレーションをふりかざし、古い腕時計の機構を、伸ばしたクリップの先だけでほじくりかえして清掃してしまうように、「えっそこにストーリー浮かび上がらせられるんだ、ん、全部ではないんだ、なるほど、でもそれ使いやすいんだ、そして再現性もあるんだ、へぇすごいね」というかんじで進めていくものだ。

思えば誰がしゃべるどのような言葉にも表層的で通俗的な字義というのがあって、それはつまり、ある言葉に対する親密度が高い人にも低い人にも共通して納得できるだけのゲシュタルトを、有限の組み合わせの出力項にすぎない文字の羅列がまとっているということであって、それは本当に見事なものだと思う。でも、もっといえば、どのような言葉にも、私達が共通して納得している部分以外に、おそらく私達が自覚できない固有の雰囲気とかオーラとかスピリチュアルコーナーみたいなものが、あらゆる言葉の、内部、字と字の間、文字の見た目と音声の聞こえ心地のバランス、言葉の歴史や使われている状況の蓄積、誰がしゃべったか・どこで聴いたかといったメタ情報なんぞに細かく散りまぶされていて、そこはもちろんきちんと複雑系になっていて、「人の脳ではわからん、読み解けん」というレベルの複雑性を持っているのだけれど、でも、理屈はわからないが雰囲気でなんとなく組み合わせてこっちのほうがおさまりがいい、耳あたりがいい、みたいなことを、ちょっと自己満足的に、ちょっと幽玄な感じでやってきたのが詩歌だったりエッセイだったりするわけで、そうやって、理屈も構造もわからないがプロダクトのよさそのものはなんとなく人が触れたり感じたりできるというのが、おもしろいところだと思う。

つまりこの世の全部は、全部はわからない。

しかしだからといって、わからないから私の知るところではないとばかりに背を向けてしまっては、まだ聴いたことのない音楽に心を震わせる体験すべてを門前払いするような、もったいないことになるのではないかと思う。だから、とはいえ、しかし、それでも、私たちはおそらく、因果の読み解きなんてできないとわかっていても、因果の一端に指をすべらせるように研究をするべきなのだと思う。