まあよい。それはわりとうれしくて長続きする心地よい夢だ。
伊藤園の「むぎ茶」のパッケージに、「ギネス世界記録 麦茶飲料販売実績 日本、世界、No.1」と書いてある。日本でナンバーワンなら世界でもそれはナンバーワンだろう。だって麦茶だぞ。いかにも日本人しか飲まなそうではないか……とここまで考えたところで、そもそも、麦茶って大麦の茶だ、だったらなぜ日本でばかり飲まれているのかと不思議に思った。大麦はメソポタミアでも中国でも作られていたというし、かつては米の代わりに食べられていたほど一般的な穀物だったから、かえって茶にするという文化がなかったということか。調べてみると、イタリアやスペインでカッフェ・ドルゾやアグア・デ・セバダと呼ばれている飲み物が大麦を用いていて、カッフェ・ドルゾのほうはどちらかというとコーヒーの見た目なのだがアグア・デ・セバダはわりと麦茶に近い。まあそれはいいのだ。あるにはあるということだ。しかし、問題は、くりかえすが、なぜ日本の麦茶ばかりが夏の定番の飲み物として抜群の知名度と売上を誇るのか。ひとつひとつの文化をいくつか深堀りしてみたがなかなかよくわからない。「なぜ麦茶に限っては、日本でナンバーワンだと世界でもナンバーワンだろうなあと、私が納得してしまう程度には日本の夏の代名詞となり得ているのか」。このなぜを気持ちよく解き明かすことはなかなかできなさそうである。
比較というのはむずかしい。対比となるとさらにむずかしい。麦茶のなりたち、文化の歴史、メーカーの思い、錯綜する背景情報などをいくら調べても、「だから、その麦茶がなぜ、ほかの国ではなく日本でこんなに地位を確立し、ほかの国では同じような飲料にたどり着かなかった、もしくはここまで流行らなかったのか」という話にはなかなかたどりつかない。AIにちょっとたずねれば仮説はいくらでも出てくるが、それらは「そうでなければなかった理由」を決して内包しない。偶然そうなったとしかいいようのない歴史のあやみたいなものがじわりと感じられる。結局人間のたどり着ける理屈ではなくて神様がすべて決めているんだといいたい人々に、自信と安心を与える結果となる。麦茶の日本における優位性を調べているうちに、神を信じる人々が世界にこれほど多い理由がなんとなく読めてくる。
そして私は麦茶のことを延々と調べながらいつしかバーベキューの火起こしをしているような気持ちになった。地平線が見えるほど広い草原にはテントが散在していて、バーベキューコンロもいくつも見えていて、キャンプファイヤーだとかピザ窯のようなものも遠目にわかる。火はいつもどこかにあって、常に誰かが何かを焼いて憩っている。そんな中、私は、自分で起こした火を使って自分で持ってきた肉を焼かないといけないという使命感に駆られて、気持ちいい風がずっと吹き抜ける中で汗だくになりながら炭にうちわで風を送っている。この火がつけば私は周りと同じことができるのだ。そこに新規性はないし独創性もない。でも自分の手元にある火は自分になにがしかの効力をもたらし、それは同時に世界に対するある種の抗力にもなっていて、どうせあと数時間もすれば私はこの炭を砂にうずめて就寝することになるのだけれど、それでも今、起きている間だけでも火をきちんと起こして何かを焼いてビールでも飲みたいなと、ああ、そうだ、ビールは大麦で作るんだったな。