病理医ヤンデルの病理トレイル

自分がブログに書いているものの文体が、近頃、少し変わってきたように思う。もともと私の文章は、わりと長時間煮込んだスープみたいなものが多くて、具材がくたくたに溶けて、歯ごたえはなくどろどろで、水が飛んだ分塩分濃度が高く、一部のビタミンは破壊されている。それがコンソメのようにきちんと味の調整をされたものであればいいけれど、実際には闇鍋のブイヨンみたいになっていたりする。味見してなにかを思ってもいまさらどうにもならないから完成とせざるを得ない。がっかりシチュー。ちなみに元来の自分の好みとしては、コトコトじっくりデミグラス文章よりも、ポトフとかスープカレーのように具材の触感が残っている文章のほうが好きである。だからだろうか、脳から出てきた文章が、指先から形になっていく過程で、さらに具材を足しにかかってしまう。それはつまり3日煮込んだビーフシチューの中に揚げ焼きのズッキーニやじゃがいもをゴロンゴロンぶち込んでいくようなことで、あとから入れたエリンギはがんがん水分をはじいてそこだけ合成画像みたいにテクスチャが変わる。つまりそれが私の文体であった。さすがにそれだと人は読みづらい。だからかつては、いちど入れた具材をふたたび取り出すという、残念なだしパックみたいな書き方をしていた。結果的に味のコントロールが難しくなってかえってぼやけて、あるいは皮だけ残ってびっくり、ということにもしばしばなっていた。しかし近頃は、その残念具なしシチューの様相がまたちょっと変わった。まあ自分で自分の書いたものを自分の見たいように見ているだけのことなのだけれど、今はどうかと言うと、追加具材を取り出さなくなった。がっかりシチュー具マシマシ。さらには盛り付けにも興味をなくした。底の深い鍋から皿に適量を移すことなくそのまま食卓にあげている。料理好きだが料理上手ではない、ああ、これはジャイアンシチューだ。ジャム、たくあん、セミの抜け殻。


完璧な裏ごしをしたポタージュなど出そうと思っても出せないし、いっそ、裏ごしをしたあとの布を公開したい。だめな欲望のクリエイティブだけが高まっていく。


売れている文章を読むと気分がよくなる。見事なもんだと思う。そしてさほど売れていなくても素朴な文章を読むと心地がよくなる。滋味深さに頭が下がる。そのどちらかを狙って書いて練習していたら、私も今頃、そういう文章を書けるようになっていたかというと、ムリだったと思う、文章というのは誰にでも書けるもので、裾野が広く、しかしだからこそ頂きは高く、努力でぐんぐん上がっていけるものだとは全く思わない。そんなに甘くない。しかし、だからと言って、私はもう少し、ちゃんと登山の経験をしておいたほうがよかったかなとも思う。山頂までは行かずとも、7合目の山小屋でカップラーメンを必要以上においしく食べることもできたろう。それをせずに私は、どうやら山の「うなじ」の部分を撫で回すようなルートを選んで山脈から山脈をびゅんびゅん通り過ぎるようなトレイルランニングをしてきた。はあはあ息を切らして走っているからあまり風景なども見ておらず、過度な運動でむしろ心臓や骨盤や膝の靱帯に劣化を招いており、ソルボセインのソールを通して伝わってくる土の感触を「これよ、こうじゃなけりゃよ」なんて、水タバコにおぼれる外国の田舎のガサガサすぎる肌の老人の声で過剰に評価して悦に入っている。


いまさらトレッキングにもガチ登山にも行けるものではない。しかしワンダーフォーゲル部の打ち上げの飲み会を横で見ていたいくらいの昏い欲望はいまだにくすぶっている。


文章は自分の鏡ではなく煮こごりである。先日、YouTubeでサンキュータツオさんが職人にインタビューをする風景の一部を流していて、そこでは「魔境」を作る日本最後の職人が、毎日こつこつと鏡を磨き込んでいて、ああ、このような一念の使い方、盛り込んだり煮詰めたり古ぼけさせたりするのではなく、唯一、研磨するという様式で、私も自分の文章を磨き研ぎ澄ませていれば、今頃、ふだんは飾り鏡のように振る舞いながらも適切な確度から適切な光量の太陽光をあびせると反射光にマリアが浮かぶ、そんな文章を書けていたのかもしれないと思ったが、まあ、研磨っつったってな、自分で自分の文章を削り込んだところで削りカスを吸い込んで自家中毒になるのがオチかもしれないな。しかしいくらなんでももうちょっと、研いだほうがいいのかもしれないけど、残念ながら肘にヤを受けてしまってな。