役目を終えていくものというのはたしかにあって、それは冷蔵庫ができたときの氷屋であり、スマホが普及してからの町内無線であり、いや、こうやって書けば、読んだ眼球が乾く間もなくすぐに脳内外に反論が展開されていくだろう、まてまて、氷屋の氷でなければ成り立たない割烹やバーというのは今も都内をはじめあちこちに存在するぞ知らないのかとか、地方の漁村などではスマホだけでは連絡しきれない緊急放送を流すためのスピーカーは相変わらず必要だろうバカじゃねぇのとか、そういう、ピンポイントでここには残るよねという話は当然ある、しかしそういうことを言いたいわけではない。「あるかもしれんけどほとんどないだろ」。ある・なしではなく、十分にある・目立たない、のところで線を引く。現実。タモリ倶楽部が取り上げるようなサブカル的マニア垂涎希少残存物という文化の残り方は、美しいとは思うけれど、それはもはや「役目」として機能しているわけではなく、どちらかというと彩り、アクセント、スパイス的に、ピリリと残存しているわけで、それが悪いとは言わない、しかし、「役目」ではないよなと思う。総体としての、総数としての、コミュニケーションの曼荼羅の中で重量をささえ続ける交点としての、重要性というものがなにかのきっかけに急落して、ほとんどゼロに近いところまで落ちていった、かつては「役目」を果たしていたものたちがいくつもあるという話だ。
この流れの前置きの前フリの中で次にいったい何を語るかというと、「医師の個人的な情報発信」である。
「役目」を終えたと思っている。
YouTubeとかTikTokとかで稼ぎになるくらいの量と質の発信をしている医師は今もたくさんいて、そういう人たちはおそらく、「俺達は別にオワコンじゃない」と思っているだろう。しかしそれはその本人にとっての利得がきちんとあるという意味で、まあ、そうだ、うん、よかったねうまくやって稼いでくれとしか思わない。そうではなくて、医師個人が発信することで、世間の雰囲気がちょっと動いていく、みたいな公益に利するほどの「役目」を果たしているかというと、それはもう果たしてはいないと思う。
2020年ころ、ふりかえってみれば、ごく短期間ではあったが、ひとりの医師の誠意と努力が、人々の行動……の手前にあるムードにコミットする瞬間はけっこうあった。それはいい意味でも悪い意味でも、で、ひとりの悪目立ちする医師のせいで界隈の評判ががくんと下がり無駄な論議がばんばん巻き起こるということもあったし、本人のキャラクタは没個性的ではあったがやっていることは確実に社会の木鐸を鳴らしているなんていうケースもあった。でももう、今はない。どちらもない。いや、繰り返すが、個人が稼げるくらいの露出を試みて成功しているインスタグラマーなどはウゾウゾいるのだけれど、「役目」を果たしている人はいない。
個人の手から情報発信における「役目」が離れていった、ひとつの転換点は、尾身茂さんがテレビにもインスタにも同等に出演しはじめたことだったように思う。ちっぽけないち医師が発信するよりも、圧倒的な実績と知名度がある医師・尾身さんが、お金も知恵も十分に注ぎ込んで情報発信をしてくれたほうが何倍も効果的だよなという当たり前のことをまざまざと目の辺りにした。私達は自分でなにかを伝えるよりも尾身さんの発言を理解して拡散する、中継ハブとして動いたほうが圧倒的にいいという当然の理解をぐっと深めた。このころ、業界の裏を返すと、さまざまな学会で、U40(アンダー40:若者という意味)の企画として、情報発信・SNSに関連するシンポジウムが雨後の竹の子のようにぽこぽこ爆誕したが、はっきりいって私達はあのころ、発信の達人になる以前にまずは「受信の巧者」になるべきだと思っていたし今も思っている。「あの医師が言ってんだから信用しよう」の「あの医師」は、学術業績や社会的立場が上であればあるほど効果的(例:尾身さん)だ。泡沫の若手匿名医師アカウントごときが「患者さんに知っておいてもらいたいオトク情報!」なんてやっても意味がない。一方で、「あの医師があの医師のことをいいねと言ってんだから信用しよう」はその後も長いこと有効であった。バズの起点となるのは、発信者ではなくて伝達者であり、見巧者(みごうしゃ)である。それはきっと映画監督と映画評論家の関係のようなものであった。映画作り自体は名のしれた監督が有名なスタジオでやったほうがいいが、それが市民に広がっていく過程では、「お前だれだよ、でもまあこいつの声ってたしかにやけに耳に残るな」という映画評論家が力を発揮する。
あのころの私は拡散の手伝いをすることがおそらく「役目」だろうと感じていた。それはたとえば、公的な場所から発信された強い情報を、医師ならば自分の診察室で、病理医ならば自分に銃口を向けるフォロワー相手に、狭い範囲で、丁寧に受け渡していくこと、それはたぶん、「SNS医師の情報発信!」みたいなレイヤーとは微妙に違うのだけれど、立派に「役目」ではあったと思う。
その後、尾身さんのように公的な立場からきちんと発信をしてじっくりと社会に情報を浸透させようという取り組みは、各方面でさまざまに拡大していった。たとえば気象庁が地震とか台風などのたびに会見をするときのノウハウみたいなものも、べつに医療を参考にしたというわけではなくて同時期のインフラであるSNSなどとのバランスを見たら自然とそこに収斂進化していったということなのだろうが、医療情報の発信様式と同じように急速に整えられていった。また、各自治体が行うワクチン接種のお知らせや、地域検診、高齢者のフレイル・サルコペニア予防のための取り組みなど、「役場による医療活動」みたいなものも、2022年くらいからぐっと専門性が加わって、わかりやすく丁寧に、かつ親切になってきたように思う。こういうものは20代とか30代の人からすると全く目に入らなくて、いったいどこでそんなことやってんの、という感じかもしれないけれど、私くらいの世代だとか私より上の世代の人々は、思い返すとたしかに昔よりも医療系の情報が入ってきやすくなったかもな、という実感はある。まあ、周りに聞いた口コミ程度の話ではあるが、逆にいえばローカルな口コミでも「市が教えてくれたよ」みたいな話が出る程度には、医療情報の発信体制というのは少しずつ進歩している。
一方で、情報のオーダーメード制の向上、悪く言えば分断が進んでいることで、発信側のノウハウは進歩したのに成果は横ばい、ということもある。逆に言えば発信側が進化していなければ絶対に右肩下がりになっていたはずで、まあよく我慢していると言えるのだけれど、忸怩たるものもある。朝から晩まで少数のチャンネルだけで回しているテレビが全盛だったころとはあきらかに異なっている。人はそれぞれ自分で選んだと思わされているSNSのおすすめTLとサブスクという名の嗜好性増幅装置によって、急速に狭い世界で学習された快感ハックに身を浸しているので、全員に広く話を届けるということが極めて難しくなった。タテ割りの行政をバカにしていたころが懐かしい。今や各個の人びとのほうがよっぽどバキバキにタテ割りである。千変万化のコミュニティに属する人びとをいっぺんに相手しなければいけない行政が私達よりはるかに多くの人びととコミュニケーションしているのだから皮肉なものだ。
また、医療系学会の発信はいまだにお粗末である。循環器学会とか耳鼻咽喉科・頭頸部外科学会とか外科学会あたりは、早期からわりと真剣に社会向けの情報整備に取り組んで、見づらかったホームページの改修をしたり、発信のための予算を確保したりという取り組みを先進的に進めていったが、ほかの学会はなかなか追随できない。私は日本超音波医学会というマイナーな、二階建て専門医制度の二階にあるような学会で、広報の予算を獲得してそれを安定化させるのになんと二年かかった。まあけっこういい感じでホームページの改修は進んでいるし動画作成も継続できているので悪くはないけれど。このあたりをもっと包括的に高速化していければいいんだけども、ないものねだりか。
で、こういった状況の中で、じつは公的機関側の発信の一部に、「5年前に個人のSNSで活躍していた医師アカウント」が潜んでコミットしているということがわかってきた。あの有名医療系インフルエンサーもあの炎上スレスレアカウントも、今や「ボーカルを引退して音楽プロデューサー」みたいな感じで後方に回って、学会や市町村などの医療情報発信の手伝いをしていたりするのである。つい軽く皮肉を言ってしまうが業界や社会における「役目」という意味ではかなりいいことで、個人の承認欲求を満たしたり金銭を得たりする目的で内容が薄く映えばかり意識した発信を試みる中途半端な医師アカウントより何倍もマシであろう。
役目を終えてまた次の役目、といえば、なんか個人の道のりとしては失敗がないかんじでキラキラしていて肯定的で、角も立たない、ただちょっとだけ寂寥感もある。あんなにがんばっていたのにな。や、努力を評価してもしょうがない、結果を評価しないとな。
みずからの遍歴をふりかえってみるとどうもあらゆることに対して半端なかかわりしかしていなくて、SNS医療のカタチについても途中から合流してなんとなく途中で離れてしまって、そこにはストーカーのせいでイベントに出られなくなるみたいな事情もあったとはいえ、なんか、もっと、まじめに一気通貫に人びとのほうを向いて、「診察室の延長」のような発信を続けてきた山本とか大塚とか堀向みたいな、すばらしい人間の手伝いをもっともっと、もっとしっかりやっておくべきだったんだけどな、という後悔はある。そして彼らは彼らであの時期の役目を終え、また次の役目に向けて飛翔していく、そのようすを見ながら私もいつまでもワクチンを2倍にして喜んでいる場合ではないのだと決意を新たにする。