そういう病理医になろう

新任地の上司から、自分の着任記念講演会を企画せよと言われた。笑う。こういうのって自分で差配するんだな。でもまあ、そうだ。私が就任するんだから私が各方面にお礼を言う内容を考えつつ、私が話を聞きたい相手を呼ぶべきなのだ。いろいろ考えて、これぞと思ったお方にメールを送ったところ、ご快諾をいただけて、無事お招きできることになった。残り時間がほとんどなかったので甚だ失礼なオファーではあったが、うれしいことだ。このような機会でもなければお招きできなかったであろうことを考えると、これは確かに、私の着任を祝う会なのであった。

じわりと忙しくなっている。マネジメント、ディベロップメント。偉くなったつもりで調整仕事ばかりしているとオペレーションがないがしろになる。医者でいうところの「臨床感覚」が薄れて、病理医でいうところの「顕微鏡センス」みたいなものが削がれる。今はとにかく毎日、勘をにぶらせないように、すでに他の病理医によって診断された標本を無駄に眺めてみたり、研究会の症例のバーチャルスライドを隅々まで見たり、普段あまり開くことのない組織病理アトラスを通読してみたりと、維持筋トレ的に病理診断との距離を保っている。しかし、やはり「臨床医から届けられたばかりの依頼書を読んで、まだ封入剤も乾いていないくらいのプレパラートをはじめて顕微鏡のステージに乗せる」ことほど勉強になることはないと感じる。初見のガラスと何度も見たデジタルスライド、どちらも情報量はさほど変わらないはずなのに、「未知」に切り込んでいくときの緊張感とともにもたらされる情報は、「既知」の再確認と比べて何倍も光り輝いて見える。ふしぎなものだ。バフがかかっているというか、そこだけほのかに灯りがついているというか。

本気でなければ何事も身につかない。かつ、本気であっても復習ばかりではだめだ。さらに言えば、受けたことのない模試を何回受けたところで、本試一度の強烈な体験には及ばない。そういう性質が、おそらくこの仕事にはある。この仕事に限らないかもしれないが私はほかに仕事を知らない。



猛烈な量の事務所類を揃えており面倒が過ぎる。居所の開示、共済のおゆるし、身分の証明、書類書類書類でたくさんものを書いているうちに私は少し字の汚さが緩和された。むかしはたくさん字を書いていたけれど最近はキータッチばかりだったから、ボールペンをがりがりすり減らしている今に、どことなく懐かしさが香る。コツコツと積み重ねていけば解決するタスクのありがたさ。答えのない仕事に暫定的な答えを提示して審判づらした主観的な感想を受け止め続ける仕事とくらべて、これらの事務作業の、いかに健全で、いかに見晴らしのよいことか。まあ、人間じゃなくてもできるけど、こんなものは。しかし、人間じゃないと、この味のある手書きフォントで見る人に圧を与える楽しみも生じない。先日、バナナマンのバナナムーンゴールドを聞いていて、設楽・日村両名はどちらもパソコンを持っていないという話に、私は運転席でのけぞった、たしかに、彼らはパソコンなんか使わなくても十分に洗練された回答を世に出し続けているわけで、それはまあ、いらないだろうな、AIなんてなお必要ないんだろうなと腑に落ちた。筆圧、声色、顔、そういったものから、私はなにかを拾い続ける生き物でありたい、細胞の顔つきを見るというのもつまりはそういうことで、ああそうか、今度は私は細胞の筆圧だとか細胞の声色までも見られるように努力しよう。