近頃自分が書いた文章を読み直すと、どうも、ふつうに人が読みやすいレベルの文章というものを書けていない気がする。自分の中で思考の火花が次の導火線に引火してバシバシ疾走していく、あるいは思考のドミノが右に左に迂回しながら次々カタコト倒れていく、その様子を、GoProかなにかを持ちながらダッシュでおいかけて、めまぐるしく画面が移り変わっていくような雰囲気の文章ばかり書いている。それはブログだけが特段そうだというわけではなくて、偉い人に出すメールも、込み入っていることがままあるし、内容を複数混ぜ合わせたような感じになっている。
それがいいとか悪いとかじゃなくてなんだかそういうところでプラトーに入ってしまったんだなあと思う。しまったんだなあというか、そういうプラトーへの入り方をするタイプの人間だったのだなあという感じである。
診断というのはそういうものではだめだ。一読して複数の解釈がありえるような文章を出すことは、
(1) いい
(2) どちらかというといい
(3) どちらかというとだめ
(4) だめ
の4つの選択肢でいうと、「(5) 論外」となるであろう。
思考の軸から視線を左右にずらして随時反射していくような文章というのでは困る。判断が難しいからといっていくつかの可能性を併記して終わってしまうというのも困る。
創作物などだと、「わからないことをわからないというのはとても大事なことだ」みたいなフレーズがでてきて、それは全くその通りだと思う一方で、たとえば診断の場面でわからないことがあり、AなのかBなのか決められないと書くのであれば、その次の瞬間からその病理医は、いつでも悩める臨床医からの問い合わせに窓口を全開にして付き合うだけの覚悟がなければいけないと私は思う。
病理医にできることはここまで、あとは臨床的にご検討ください、と書くのは百歩譲って許すとしても、しかしその「臨床的な検討」にも病理医として参加するだけの覚悟がないなら「わからない」という言葉を安易に書いてもらっては困ると、私は思っている。
人に理解されないようなものを外部出力していいことというのはあまりない。そこはやはり、学術論文のように、論理的で筋の通ったことを、きちんと責任もって提示していくというのが、大人のお作法であろうし、医師としても研究者としても当然考えておくべきことなのではないかと思う。
ただし、そういう大前提とか日常の決まり事はともかくとして、私がまだ出力していない、あるいは出力することに魅力を感じていない部分を詮索して、「何を考えているのかわからない」などと言いたがる人というのも世の中にはいて、そういう人には純粋に、「わかるわけないだろう」と言いたい。人間、本来、脳の中では、そんなに単純な一本の筋道で思考しているわけではないと思うのだ。片側のAという論理が構築されていく横で、それと完全にずれるわけでもないが、同系統というわけでもない、偏りと圧力を持ったBという概念が、Aに向かってにじり寄ったり、やや溶け合うような感じで癒着したりして、AとBと、さらにはCもDも、A.5みたいなものだとかD/Bみたいなものもやってきて、ぐちゃぐちゃになっていて当たり前だと思うのだ、それを、公的な場所にあたかも出力されたもののように、ここは筋が通っていないように思えるなどと、気軽に評価する人間の地頭というのはあまりよくないんじゃないかなと思ったり、思わなかったりしている。