ロビーから見上げる空は雲でかげり、気温がすっと下がってきた。スーツのジャケットを着たままでも不快と感じない。本日はこのままスーツのまま移動してしゃべって飯を食ってホテルに帰ることになるだろう。夏が終わったなと思う。
近頃、上半身の筋肉が落ちてきたせいか、昔つくったスーツに着られているような、なにやら後ろからだらしなく覆いかぶさって来られているような着こなしとなっている。やや恥ずかしいが、家族や友人はみな、「大衆は私のような中年の見た目など気にしていないから心配しなくていい」と言う。かくいう私の脳も、スーツにネクタイにメガネの人間が視線の端っこに映った瞬間からもうその一縁の風景については情報処理をしようとしていないように思う。注釈も懸念もいらない記号と化すことで、環境にかける負担を減らす、それが私たち中年男性が事あるごとにスーツで動き回る理由ではないかと思う。この理屈でいうと、胸ポケットにハンカチーフを挿したり、デザイン性の高いネクタイやベルトのバックルを用いたりするというのは、無駄に情報を発生させて周囲にアフォーダンスを押し付けているということになり、こと、講師としては心がけが足りない、ずれている、そういうところに注意を払わせようとする心根が講演という場にそぐわない。講師を名乗るからには自分ではなくプレゼンの内容をなるべくロスなく伝えることに全力を注ぐべきだろう。しかし、思えば、近ごろの学術講演はだいたい半分くらいが、「学問」よりも「その人」を伝えようとやっきになっている。よくない傾向だと感じる。学問さえもインスタ化してきている。
空港で隣に座っていた中年男女の元に大柄の着信音と共に電話がかかってきた。胴間声の男性が電話をとり、周囲に気を遣いながら遠くに歩いていくのだが、離れるごとに声が大きくなる、距離の二乗に反比例して減衰するはずの声がどれだけ離れてもほとんど同じボリュームで私のいるところまで聞こえてくるので微笑んでしまった。気遣える騒音源というのは悲しきモンスターである。返事がなかなか来ないメールの催促を打ち込んでいた私もだんだん仕事がばかばかしくなってPCを閉じようとし、まあ、そうか、と思い直して今こうしてブログを書いている。
周りと自分との関係、周りと自分との間のことをしばらく考えている。この議題は、コミュニケーションとか社会的存在とかそういう話でよく語られるであろうが、私の場合は病理診断の、診断の文章・所見・そういったものの「軸足」をどこに置くかという文脈で展開されている。たとえば、多くの病理医は診断の所見を「見たものを科学的に、客観的に、あますところなく書く」というような訓練を受けており、もしくは訓練を受けずとも自らそのように考えて文章を整えている。しかし近ごろの私はその程度の営為ならばべつに人間がやらなくてもいいのではないかという気持ちが若干高まってきており、もう少し「間」に置くことを前提とした文章を書いてみてもよいのではないか、というある種の浮気心をしばしば抱えている。科学というのは主観ではだめだ、客観的に解析して述べる業こそが科学技術だという内容のことを、実際に科学を為していない物書きの類がたまに語るのだけれど、それは近似的にはそうだが実践としてはけっこう間違っていると私は考えている。科学とは客観的な現象を主観的にしか体験できない人間のさみしさを引き受けるジャンルでなければならず、その際、主観を廃するなどということは高校生でも発想するが、主観という矛盾を飲み込んで、客観よりもなお平等な主観のふるまいがないかと問い続ける姿勢こそに科学のわびさびがあるのではないかということをわりと本気で考えるのだ。しかしそれは、あるいは、患者の向かいに立って患者の外見と患者の血液検査データと患者の画像所見とをはすに構えて眺めようとしている臨床医の斜め後方にきちんとスーツを着て立って、「ちなみにそこ、もうちょっと違った見方もできるよ」と声をかけることが病理医の本当の仕事なのではないかと私が信じきっているという大きなバイアス、悲しいほどの肩入れに基づいた、偏見でしかないのかもしれない。