JAの存在感

コロナの検査を二度やって二度陰性だったのだが、ノドの痛みが二日ほど続いて治ってからかれこれ二週間、へんなタイミングで咳が止まらなくなるのが続いている。そういうところ、コロナっぽいけど、違う風邪なのかな。Zoomのマイクをすかさずミュートにするテクニック。講演の前にはメジコンを飲んだり龍角散ののど飴を使ったりしてなんとか咳を抑え込む。移動中はマスクが欠かせない。不如意な咳払いの中年はマスクをしていたほうが周りに圧を与えなくて済むだろう。地下鉄ではなるべく椅子にも座らないようにしている。中年男性が隣に座るだけで少し警戒してしまう人も多いと聞く。気遣いなんてこんなんいくらあったって困らないですからね。気道と外気が直接連絡しないように遮断し、他者に熱感も振動も何も与えないようにすみっこで息と気を抑える。猗窩座が気づかないくらいの存在感を理想とする。

左の前腕の内側に謎の黄ばみ、というか少し茶色みがかって肌のテクスチャが変わった領域がある。触って押してみると少し痛い。おそらく気づかないうちにどこかにぶつけていたのだろう。こういうのを見ると、しみじみ、「自分のことは自分ではわからない」と感じる。自分の輪郭の大きさを間違えて足の小指を角にぶつけたり、手の振り幅を計算せずに電車の座席に手をぶつけたり。ところで今の私は、先程買ってきたペットボトルに手を伸ばし、右手のボトルを左手に持ち替えて、その後右手でフタを開けに行く、そういう一連の動作に何の困難も感じていない、これはまたずいぶんとうまく調整された運動だなあと関心したりもする。たとえば、左手でボトルのどの高さを持ち、右手でフタを迎えにいくときに左手よりもどれくらい上にずらした部分に右手を持っていくかといった微弱な調整、これをペットボトルを見ることなく自然と行うことができるというのはなんとも高度だなと思う。自分の身体の大きさはあまりわからないのに、ペットボトルの大きさは反射と行動にしみついている。優先順位にエラーが生じていないだろうかと心配にもなる。

脳は心象の世界で世界を仮想的に再現する。それはたとえばペットボトルのサイズとか物性をいちいち目視しなくても手指が覚えているといった話もすべて含んでいる。ただし、どうも脳は、自分自身をその仮想世界の中に再現しようとはしないのではないかとも思われる。脳が構成する仮想世界とはあくまで「対・自分」的なものであって、自らの身体の状況を包含した仮想世界というものではないようなのだ。もっとも、超一流のサッカー選手は自分を含めたフィールド全体を脳内で鳥瞰して把握できるというが、それも果たして本当なのかな、そんなに人の脳って自分の座標をきちんと世界に置いているものなんだろうか。脳内でイメージを作っているのは自分の目の「外」にあるものばかりだ。自らの肌より内側の部分は仮想世界には持ち込んでいないような気もする。


わからない。知らない。自分のことは。自分のことだけは。


デスク引っ越しに際して周りにある細々としたものをつぎつぎと袋や封筒にしまいこんできれいにした。クラファンでもらった近江神宮のお守り、SNS医療のカタチで作ったおかざき先生デザインのキーホルダー、堀向健太からもらった目のひかるウサギの置物、かつてモンゴルで買い求めた名刺入れ、先日妻がタイのおみやげに買ってきたゾウの模様のカードケース、折り目の少ない2000円札。あれこれたくさんあって次の職場でもお店を開くようにこれらを並べて置こうと考えているが、そんな中、どうしてもある一つの小品だけが出てこない。その名も「JAバッヂ」。北海道厚生連の職員は必ず支給されるバッヂ、弁護士が襟元に付けるような感じで、厚生連の集まりがあるときにはこれをつけろというのだけれど、私はこのバッヂをどこかに紛失した。一度も使ったことがない。きれいなケースの中にちゃんとおさまっていて、私はそれをつい数ヶ月前にもどこかの引き出しの中で見ていたはずなのに、いざ、引越し前にそれらを探すと出てこない。規定を読む。JAバッヂは退職の際に返却してください。紛失した場合は実費:500円を請求します。うわあ。500円かあ。タンスの角に小指をぶつけたときのようなダメージを私は心の足元のところに負う。