余計なお世話

白いページを開いて文章をばかすか書いて、それをそのままウェブに載せたいだけなのに、カーソルのまわりに予測変換だとか、修正候補だとか、英訳サポートアプリのポップアップだとか、AIが常時走っていることをアピる謎の点線だとかがポコポコポコポコ、出ては消え出ては消える。

メールの着信音、アイコンの上に表示される未読ありの通知、Microsoft teamsのリマインド、LINEとGmailとGoogle photoとでちょっとずつ違うスマホのバイブレーション、クリーニング屋のクーポン、Peatixの新着イベント。

気が散る要素を数え上げていること自体も、気を散らしている。かまわなければいいのに。放っておけばいいのに。でもこれらの通知は選択圧の末に「人間に放置されないような音色、色味、配置」で出てくるように調整されていて、私の本能はこれらを無視できないようにコントロールされている。

削ぎ落とさなければまっすぐ歩けない。それで近ごろの私たちはいつもふらふら歩いている。


たとえば薬膳というのは気の散る料理だ。メニュー以外に文字を読まなければ味の理由がわからない構成というのはいろいろ間違っていると思う。だいたい味に理由を付けなければいけない時点でおかしい。しかし、そういえば、近ごろの料理、外食というものは、どれもこれも薬膳的で、どのような理由で素材が選ばれているかを学ばなければ食べる資格がないし、どのように食すればいいかを教わらなければ箸でのつまみかたすらもわからない。見た目を客が意味ある角度で撮影できるよう提供されていなければ話題の端にも登らない。つまりは食事はすべて薬膳化してきたのだと思う。意味が後からついてくるような体験というものが、レアになった。感想を予測できない経験を積むことが難しくなった。



これらがすべて、世の中を少しずつ良くしているのだろうということも、わからないわけではない。自分の信念に基づいて、詐欺師を我が子だと思い込み金を振り込もうとする老人たちが、不審な挙動をアプリに指摘されて未然に詐欺を防げれば、それはとてもすばらしいことだし、絶対に失敗したくない家族旅行を口コミに基づいて念入りに下準備して、結果、当日自分は何も楽しめなかったとしても子どもたちのはしゃぐ顔を何千枚も写真に収められるのだとしたら、それほど幸せな思い出もまたないだろう。

つまりはなんというか、私たちが、至らなかったり、気づかなかったりするせいで、とりこぼしてきた小さな幸せを、アプリや情報があらかじめ拾い集めてくれてはいるのだと思う。

そんなことをわかった上で、なお砂漠にいるようないがらっぽさを感じる。ごほんとむせてしまう。



幸せになるために生きているという前提、おしきせ、それをいったんなしにして、世界とむき身でぶつかったり、空間にまっすぐ己を試したりするとき、「オマエをよりよく導いてやるよ」「オマエを今より少しだけラクにしてやるよ」「オマエをどちらかというと幸せな方向に運んでやるよ」と声をかけてくる有象無象、そういったものがみな、うっとうしくてたまらないのである。幸せになりたいかどうかを自分で決めさせてほしい。幸せが唯一の価値だと決めつけないでほしい。私はときに、不安の中に飛び込んでいきたいし、おさめようのない痙攣に魂をふるわせて自分の輪郭がおさまるのを待っていたいときだってあるのだ。