ネクタイも毎日つけることにした

幡野さんの写真を2枚、職場のデスクに飾ることに成功した。



「陣地」をちょっとずつ広げていく。飾りたいものはほかにもある。おかざき真里先生のイラストレーション。ROROICHIさんのペン画。フラジャイルのアクスタ。ただ、あまりに急に職場を私の「元の色」に揃えてしまうのも、まわりはびっくりするだろう。目立ちすぎないように。はしゃぎすぎないように。急ぐ必要はない。ほどほどが一番だ。

そうやって躊躇をしている間に、おそらく、私の色は変わっていく。


「私の新しい勤務先の、他部門を2年ほど前に退職されたものの、まだばりばり現役でやられている医者」から、私の赴任にあわせて連絡があった。私のことをよく知っているという。一度会って挨拶がしたいのだという。さあ、どのジャンルのことをご存知なのか、画像・病理対比か、教育か、あるいは消化管病理とかそっちのほうか、と思ったらSNSだった。ちかごろそういうパターンは逆に珍しい。SNSで有名とは、SNS上でアプローチできてしまうという意味であるから、リアルのやりとりを待たずともすでになんらかの形で知り合いになっているケースがかなり多く、SNSをきっかけにリアルでの会話・付き合いがスタートするなんてことは、ここ何年も、私のコミュニティの内部や縁辺ではあまり生じてこなかった。しかし、主たる勤務先が変わったら、力場・重力場みたいなものが微妙にずれたようだ、ほうぼうから「かねてより有名だった市原先生が」「かの有名なヤンデル先生が」みたいな、とっくの昔にこすり終えたと思っていたアプローチをがんがん受けるようになった。私自身はまだ変わっていないのだが、私の一枚背部にあるレイヤーが入れ替わると私の見え方はだいぶ変わってしまっているようである。補色の関係みたいなものもおそらくずれていて、これまで私に塗られていた色の一部は埋没し、一部はこれまでよりも際立って見えることになるだろう。


さまざまな事務・連絡・調整を引き受けている職場の先任者たちはいずれも優秀で、たくさんの色を放っている。その色を随時私が引き受けていくことになる。ただしおそらく私の表面を覆っているごつごつとしたテクスチャは、一部の色をはじいてしまうし、一部の色は思っていたのと違う感じで染まってしまうだろう。色をそのまま引き受けるというのはとてもむずかしい。私はなるべく自分がそこに入ることで何も変えたくないと願っているけれど、色というのはいつでも加算と乗算だけされていくもので、アドビのイラストレーターのようにコントラストを下げたり透明度を上げたりというのは基本的にはできない。すなわちファクターが加われば加わるほど色は一方通行に濃くなりくすんでいく。それをわかった上で、できるだけ見た目のバランスが変わらないように自分の色を重ねていく、なんていうのはそうそううまくできるものではない。ならば私はどうするかと考えて、たとえば、背景のパッチワークの一部の素材をそっと入れ替えてしまう、みたいなことをする。それまで置いてあったアーキテクチャは何も変えないまま、背景を微妙に入れ替えるだけで、そこにあったものたちはまた違った見え方を発揮するだろう。それとて、いい方にばかり転ぶとは限らない。


もちろん、線画から書き直すという手もあるにはある。全国の大規模な施設を見ていると、人が入れ替わるごとにモチーフごとごっそり入れ替わっているということもしょっちゅう起こっている。ただ、こと、私の新しい職場にかんして、私はそこまでの権限を持っていないし、この美しいフォルムもカラーリングも私がおいそれ変えてしまっていいものだとは全く思わない。思わないが、しかし、自分がいてもいなくても全く変わらないまますべてが進行していくとなるとそれはそれで悔しいし甲斐もない。結論として、すでにある立派な絵画の、はしっこのほうにこっそりサインを書き足しておく、くらいの小さな活動から今ははじめている。たとえばそれは、廊下ですれ違うあらゆる職員・学生に、元気に挨拶をしてみる、くらいのことであったりする。